俳 人

黒岩鷺白

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鷺白の句

望雲七代目黒岩忠右衛門。雲嶺庵。芳草舎。

上州草津   黒岩忠右衛門 
   鷺白 


鷺白   草津 
   黒岩忠右エ門 


「ホテル望雲」


安永2年(1773年)、俳諧を高桑蘭更に入門。

蜂あれて屯(たむろ)かへたりさくら人


「ホテル望雲」の玄関の脇に碑がある。


六月やい多る處に温泉の流れ   蘭更

  氷室能さくら山ほとゝぎす   鷺白

 文化六己巳水無月


 安永8年(1779年)夏、加舎白雄の来遊を機にこの派にも参加。

   くさ津の温泉にて、

秋こゝにさうなき山の露さへよ

「鎌都」

 小林一茶とは寛政2年(1790年)以来のつきあいであったようだ。

 寛政7年(1795年)6月、芭蕉の句碑を建立。『はせをつか』(楓幻亜編)に収録されているが、数次の大火で焼失。

赤々と日はつれなくも秋の風

 天下の名湯草津町の草津ホテル前庭に、カサをかぶった尺角の石柱が立つ。彫りの深い筆太の字で、正面に芭蕉翁碑前、右側に寛政七卯歳六月、左側に下総松戸斗囿、米二と割書してあるが、斗囿は一茶の親友で「一茶翁文通」の編者秋本氏。こうした著名人の御前立に威儀を正した本尊鷺白建立芭蕉塚の得意思うべしである。惜しいことに同町数次の大火が首碑を焼いて副碑だけを残したのは皮肉。元禄2年『卯辰集』の句。

『上毛芭蕉塚』(本多夏彦著)

 寛政11年(1799年)、剃髪して雲嶺庵と号する。

十七日也
一つゝみ状 草津にろ白 高橋油屋に出ス


 文化5年(1808年)5月29日、一茶は郷里の柏原に向かう途中で草津温泉に遊ぶ。

   廿九日 雨

長野原など過ぎて草津の雲嶺庵に入、十八年へだゝりての再会也、スハの若人匏宇に逢ふ。

湯けむりにふすぼりもせぬ月の貎


光泉寺に小林一茶の句碑がある。


湯けむりにふすぼりもせぬ月の貌

 文化6年(1809年)、『古今綾嚢』(鷺白編)刊。自序。道彦跋。

 文政元年(1818年)7月17日、里丸は草津の雲嶺庵で歌仙。

   俳諧之連歌

上州草津温泉雲嶺庵興行

そはそはと七夕栄のする在所
   鷺白

 残る暑さをかくす薄月
   里丸

 文政3年(1820年)、十返舎一九は草津温泉を訪れている。

くさつ入口のまち屋なり。おんせんのたひ人にてはんじやうなす。

中ゐより三りゆきて草つへ入口なり、こゝにておうらいの人へやど屋の切手をわたす。入口の町をしんでん丁立町といふ。こゝのやどやいづれも人家にしてふしんのけつこう、みな三がいづくり也。ゆもと安兵へ、くろいわ忠右衛門ならひに山本十右衛門などいづれもはんじやうのゆやとなり、

ぢぞうのゆのかたはらに雲松庵といふ有。はいかいふうりうの人つねにつどひあそぶといへり。

『方言修行善光寺草津温泉道中金草鞋』

文政7年(1824年)12月27日、鷺白は79歳で没。

 鷺白の子芳雄は、春耕の一族久保田源三の子で、黒岩家に養子に入った人。

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