俳 人

太乙楼不騫


豊後府内藩六代主松平近儔(ちかとも)。雪中庵三世蓼太の門人。太乙楼。

不騫歿、二月十六日、享年八十六、江戸小石川傳通院に葬る、豐後府内藩主、大給氏、名近儔、長門守、太乙樓、雪登齋と號す、蓼太門。

『新撰俳諧年表』

 宝暦4年(1754年)3月27日、豊後府内藩の第五代藩主松平近形(ちかのり)の長男として生まれる。

蓼太は太乙舘に召され、不騫と両吟。

   はしめて太乙舘にめされる頃

文このむ香あり弓あり月と梅
   蓼太

 春たつ窓の二日みか四日
   不騫

『七柏集』

 天明元年(1781年)5月、『七柏集』(蓼太編)。南畝序。月巣序。

 天明5年(1785年)、几董は江戸に出て夜半亭を継承。蓼太は几董を伴い太乙舘で俳諧興行。

   於太乙舘中興行
 不騫
閨の梅香をもらさじと逢夜哉

 膚におぼゆるきさらぎの雪
   几董

鶯の初音の玉や碎くらむ
   蓼太

 十歩に景のかはる岨道
   馬耳

狩衣に都の月をかざし見て
   一鷺

 繪も秋されし宿の盃
   巴人

温泉近く竹も柏も霧雫
   完來

 馬かた逃て馬嘶ふ也
   木奴

『續一夜松前集』

馬耳・一鷺・巴人・木奴は不騫の家来で、蓼太の門人。

天明7年(1787年)9月7日、蓼太は70歳で没。

天明7年(1787年)、不騫は蓼太の句碑を建立。


月を出て月に野やまの入夜かな

 文政13年(1830年)、不騫の第二子近訓(ちかくに)が松栄山の大給家祖廟に不騫の句碑を建立。



山姫のもみぢのにしきそめわけて

   みねよりおつる滝のしら糸
   源昭重

朝霧は漿(ごんず)なるらん山さくら
   太乙楼不騫

昭重は大給(おぎゅう)家二代の祖。近陣。

天保11年(1840年)2月16日、死去。享年87。

墓所は小石川の伝通院。

大分市勢家町の威徳寺に「法声の松句碑」がある。


松風や千代色かへぬ法の声
   不騫

松ともに尽きぬ栄えや法の道
   千条

明治22年(1889年)、山田雅次郎は不騫の句碑を建立。


よしの芳野かしこは桜ここは梅

不騫の句

朝霧や晴て羽たゝく松の鶴

鵯にあぶらのりけり梅のはな

寒梅や動かぬ水とはなびらと


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