わが故郷に帰れる日 |
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汽車は烈風の中を突き行けり |
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ひとり車窓に目醒むれば |
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汽笛は闇に吠え叫び |
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火焔(ほのほ)は平野を明るくせり |
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まだ上州の山は見えずや |
この詩碑は、昭和30年5月萩原朔太郎の13回忌に建立除幕された。萩原朔太郎詩碑としては最初のものである。 敷島公園松林は、詩人が生前こよなく愛した地であり、前橋にあったころは、しばしば散歩に訪れた場所でもあった。碑面の作品は詩集『氷島』に収録されているが、その冒頭6行を刻んだものである。文字は詩人の自筆ペン書きを拡大したものである。
(財)前橋観光コンベンション協会 |
萩原家の敷地の南東の位置にあり、表通りからはっきりと見えた。鬼瓦の下の「萩」の文字が萩原家の所有を物語っている。朔太郎の妹、津久井幸子さの回想によると、明治34年(1901年)もしくは35年(1902年)ころ建てられた。昭和20年の前橋空襲の際、この土蔵が延焼を食い止めた。ここに保存されていたノート、原稿など数多くの朔太郎資料が今日残ったのも、この土蔵があったればこそである。 |
母家と接続する渡り廊下で結ばれた萩原家の客間である。
朔太郎の父密蔵が明治25年(1892年)ころ建てたもので、8畳の部屋と床の間、円窓のある水屋がある。この部屋からは築山をあしらった立派な庭園が眺められた。北原白秋、若山牧水、室生犀星などがこの部屋で歓談した。土蔵と離れ座敷および池の位置は往時のまま復元されている。 |
大正3年(1914年)2月、室生犀星前橋来訪。 |
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大正4年(1915年)1月、北原白秋来橋、1週間ほど滞在。 |
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大正8年(1919年)6月、若山牧水来訪。 |
生家の裏庭にあった味噌蔵を改造したもので、大正2年(1913年)秋に工事をはじめ約3ヶ月を要して完成した。内部はすべてセセッション式統一され、二重カーテンレールが施され、カーテンは東京三越から取り寄せた。机、椅子も朔太郎自身の考案による特注品をあてた。『月に吠える』『青猫』などの作品は、この書斎でで書かれたのである。またマンドリンのレッスンにも使われ、「音楽室」とも呼ばれた。北原白秋・室生犀星も来訪した。
前橋市 |
村上鬼城翁逝いて二十一年ここに遺墨を録して |
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師翁の高風を偲ぶ 昭和三十三年暮春 |
三葉 関口高次郎建之 |