2013年岐 阜

金森長近公之像〜二の丸公園〜

高山市城山に二の丸公園がある。


二の丸公園に「金森長近公之像」があった。


逆光ぎみである。

金森長近公略伝

 高山藩主初代金森長近公は美濃土岐氏の一族で、初名 可近 五郎八と称した。幼少より織田信長に仕え、長の字を賜り長近と改名した。

 天正3年(1575年)5月、長篠役、ついで加越の戦に従い、7月越前大野に封ぜられた。同10年本能寺の変あり、嫡子長則が殉死した。この年従四位下兵部大輔となり、剃髪して兵部卿法印素玄と号した。

 同13年8月、秀吉に従い越中の佐々成政を伐ち、さらに飛騨国平定の命を受けて越中婦負郡より入り一国を統治した。翌14年、飛騨3万8千石の領主となった長近公は、この地臥牛山に築城の計画をたて、町家を新城下に集め市坊の経営に当たった。

 慶長5年(1600年)、関ヶ原役には徳川家康の旗下に属して勲功あり、美濃上有知 関 河内金田において2万3千石を加増され、飛騨を二代可重に託し、上有知(こうずち)小倉山城を築いて晩年の居城とした。

 戦陣の暇、長近公は民政に力を尽くし、高山城下の町割をはじめ、寺院の再興、道路の整備、産業の開発等は領民に多大な便益をもたらすものであった。

 同13年8月12日、京都伏見邸にて卒去。享年85。法号金龍院殿前兵部尚書法印要仲素玄大居士。遺体は紫野大徳寺塔頭金龍院内に葬られた。

 ここに、市制45周年(1981年)を記念し、協力を得た多くの人びとの芳名録を台座に収納し、高山市都市形成の祖「長近公」の遺徳を後世に伝え、高山市の繁栄と永遠の平和を祈念して城山公園にこれを建立する。

   昭和57年11月1日建立

金森公顕彰会

反対側から撮ってみた。


やや、後ろ向きである。

明治42年(1909年)7月17日、河東碧梧桐は高山のことを書いている。

 飛騨の山地には言うまでもなく殆ど都を作るべき空地がない。唯だ宮川沿岸に多少の平地を見るのみである。金森氏の城を構えた高山が今なお飛騨唯一の都会になっておるのもそのためであろう。岐阜県として言えば岐阜大垣に次ぐ三都会の一つである。自然高山に次ぐ名邑というものが絶無と言ってもよい。僅に古川町を数うべきであろうが、これも高山を距る三里余の宮川沿岸である。宮川は富山に落る神通川の上流である。


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