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ここはかつて大槻原と呼ばれた原野に旧二本松藩士が入植し開拓したところである。 安積開拓における士族移住の魁である。中央政府が安積疎水開拓を計画する以前の、明治6年3月福島県令安場保和は二本松に出張して安積開拓移住を勧奨した。 廃藩置県により旧藩士は前途の生活に迷っていたので、県令の勧誘に数名は即座に移住を志願した。 追々入植者がふえ、大槻原に11戸、青田原に18戸が入植し桑園と美田へ導いた。大槻原一帯は郡山市の中心街となり、住宅とビルが建ち、昔日の面影は残していない、 |

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昭和4年(1929年)、建立。三木宗策制作。 昭和18年(1943年)、供出。 昭和20年(1945年)、三木宗策永眠。 昭和28年(1953年)、再建。三坂耿一郎制作。 |
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戊辰戦争で郡山の町の大半は、戦火で焼失したが、明治政府は、富国強兵・殖産興業によって日本を活気付ける方針を立てた。 明治5年(1872年)、福島県典事中條政恒は、「開拓告論書」を出し、その政策を進めた。そして、中條政恒に物産方(金融業)阿部茂兵衛と鴫原弥作、橋本清衛門を加えた4人で話し合い、開成山開拓(大槻原開拓)の意思を固めた。 明治政府の政策である、殖産興業と士族授産に協力すると共に、町の復興を願う郡山の商人は、阿部茂兵衛を中心に富裕商人25人が集い、明治6年(1873年)4月「開成社」を設立し、阿部茂兵衛を初代社長として開拓事業に尽力した。開拓地までの道(現さくら通り)を作り、灌漑用水地(現五十鈴湖)を造成、心のよりどころとして開成山大神宮を勧請、開拓事務所として開成館を建設した。この開拓で、新村桑野村(現開成地区)が明治9年(1876年)に誕生した。 明治天皇は、明治9年と14年の2度にわたって桑野村を訪れ、このことが後の国営事業安積野原野開拓と安積疎水事業とつながり、今日の郡山の発展の礎となった。 また、阿部茂兵衛は、開拓に必要な農業用水を確保するため、明治12年(1879年)安積疏水開削事業にも献身し、学校の整備、鉄道敷設にも奔走するなど、財産のほとんどを注ぎ込んで、郡山の発展に尽くした。最後の仕事に移庁運動があるが、福島県庁郡山移転の県議会決議があったが、国に決定を待たずに没した。 阿部茂兵衛の功績をたたえるため、昭和4年(1929年)に羽織袴姿の銅像(三木宗策作)が建立された。昭和18年(1943年)戦争のために、銅像は、一度供出されたが、昭和28年(1953年)11月、開成社社員が明治天皇に拝謁した折のモーニング姿(三坂耿一郎作)で再建された。 |

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「安積開拓の父」といわれる中條政恒は、天保12年(1841年)に、米沢藩士の長男として山形県館山に生まれ、藩校興譲館で学んだ後、江戸に出て学問を収め見聞を広めた。 彼は、開拓事業に目を向け、樺太移住開拓を持論とし、後に北海道開拓を提案したが、幕末の動乱の中で採用されなかった。 明治5年(1872年)に、福島県令(現在の知事)安場保和に大槻原開墾の指導者として迎えられた中條は、郡山の商人25人による「開成社」の協力を得て明治9年に桑野村を誕生させた。 この荒野開拓の成果が認められて、明治12年から国の事業として安積疎水の開さくと安積野開拓が進められ、これらの事業が成功して、現在の郡山市の発展の基盤となった。 この2つの推進者が中條政恒であった。 碑文は大久保利通の長男利武の撰文で、彫像は北村西望の作である。
安積野開拓顕彰会 |

