2021年福 岡

常盤橋〜長崎街道〜
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北九州市小倉北区京町に常盤橋がある。


日本百名橋に選定されている。

常盤橋の由来

北九州市

 常盤橋は江戸時代の初め頃、小倉の城下町の東曲輪(主として町人が生活していた地域)と西曲輪(主として武士が生活していた地域)を結ぶ、重要な橋として架けられ、当初は大橋と呼ばれていました。

 この橋の西勢溜(せだまり)(橋詰)が長崎街道の起点となっていたため橋の周辺は幕府役人や旅人の宿などが建ち並んでにぎわっていました。

 参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、多くの人々がこの橋を渡っています。中でも有名なのがドイツ人医師シーボルトで、この橋を銅版画で紹介しています。

 このように海と陸の玄開口として、九州の各街道すべてがこの大橋に連なり、九州における日本橋となっていました。

 治水対策として川幅を広げるため橋の架け替えが必要になったのを機会に、コンクリートと同じ強さを持つ木材を使い、江戸時代の姿「木の橋」としてよみがえることとなりました。(平成7年3月完成)

小倉 引島を望む景


シーボルト「日本」図録より

長崎街道

 江戸期代後期に全国を計測した伊能忠敬が、文化9年(1812年)1月から長崎街道を測ったとき、西勢溜(西広場)の高札場の下を起点としました。

 小倉は古くから交通の要地で、太宰府政庁があったころから官道が開かれ、高浜、長浜を通る防人たちが詠んだ歌も残っています。

 しかし、長崎への道が注目されるようになったのは江戸時代になってからです。

 徳川幕府は鎖国令を出して外国との門戸を閉ざし、わずかに長崎においてオランダ・中国とのみ貿易が行われました。幕府は慶長8年(1603年)に長崎奉行を設置し、明治元年(1868年)まで続きました。また、寛永18年(1641年)長崎に出島を建設し、オランダ・中国との貿易が固定して、江戸と長崎との往来も頻繁になってきました。

 この道は参勤交代などの往来だけでなく、オランダ商館のケンペルやシーボルトなど外国人や、西洋の文化や物資が長崎から江戸へと流れていく幹線道路となりました。道も整備され、慶長16年(1611年)には黒崎、原田間のいわゆる筑前六宿が完成し、小倉から長崎の間の全長57里(約228キロ)25宿が定着して、江戸を発する五街道に次ぐ主要な道路となりました。

 この道は当初は長崎路と呼ばれていました。しかし、江戸時代前期に貝原益軒が記した「筑前国続風土記」の中に「長崎街道」の名が出てくるので、江戸時代の割合早い時期から長崎街道といわれていたようです。

 小倉への諸街道が集中する常盤橋周辺の京町・船頭町・宝町・室町には、九州の諸大名が参勤交代で泊まる宿(本陣)や、商人や旅人が泊まる旅籠が多数あり賑わいました。

西勢溜(せだまり)


豊国名所

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