私の旅日記2004年

里見公園〜紫烟草舎〜
indexにもどる

弘法寺から千葉商科大学を抜けて、里見公園に向かう。


 県道1号市川松戸線を歩き、東京医科歯科大学の角を左に曲がると、藁(わら)で作った大蛇が樹にかけられていた。

大蛇


里見公園へ。


国府台城跡

 文明11年(1479年)7月、太田道灌は千葉良胤を援け、臼井に籠る千葉孝胤討伐のため、この地に城を築いたのが国府台城の起りと伝えられている。

 その後、天文7年(1538年)10月足利(小弓公方)義明は里見義尭をはじめ、房総勢一万余騎を率い、北条氏綱の従える二万余騎と、この地で対陣した。このとき江戸川を渡って進出した北条軍を迎え、義明は激闘のすえ戦死し、房総勢は敗退した。

 この合戦から26年後、永禄7年(1564年)正月、里見義尭の子義弘は、兵八千をもってふたたび国府台に出陣し、北条氏康、氏政父子の二万余騎を迎え討った。里見軍は緒戦において大勝をえたが、翌朝里見勢の油断をついて国府台城に攻めこんだ北条勢のため、城中は大混乱に陥り、たちまち五千の戦死者を出し義弘は安房に敗走した。以後、この地域は、この地域は北条氏の支配するところとなった。

 天正18年(1590年)徳川家康が関東を治めるや、国府台城は江戸俯瞰の地であるところから廃城となり、家綱のとき関宿より総寧寺を移した。

 文化14年(1817年)8月27日、国学者高田与清は国府台のことを書いている。

○國府臺は此邊にならびなき高岡(たかきをか)にて、二度軍を覆せし跡なれど、今は安國山總寧寺てふ大寺立て、法(みのり)の音常にたえざれば、討死にせし兵士(ものゝふ)等が怒の魂もなごみぬらんといとたふとし。


名所江戸百景の内「鴻の台と祢川風景」


 浮世絵師安藤広重(1797−1858)が安政3年(1856年)刊行した名所絵で、当時の「鴻の台(国府台)」と「と祢川」利根川(江戸川のこと)の風景を知る貴重な資料の1つです。

 その後明治に至って、陸軍の兵舎が立ち並ぶ軍隊の街となったが、昭和34年(1959年)この地を公園とし、「里見公園」となづけた。

里見公園に紫烟草舎がある。

紫烟草舎


 大正5年(1916年)5月、北原白秋は真間の亀井院の庫裏を借り、江口章子(あやこ)と暮らし始めるが、6月末には江戸川を挟んだ南葛飾郡の小岩村三谷へ移ってしまう。

小岩に移った白秋は自分の住む家を「紫烟草舎」と名付けた。

 昭和44年(1969年)、市川市は持ち主から寄贈を受け、里見公園内に「紫烟草舎」を復元した。

紫烟草舎の脇に白秋の歌碑がある。


華やかにさびしき秋や千町田のほなみがすゑを群雀立つ

北原隆太郎氏の解説が書いてあった。

 広大無辺な田園には、黄金色の稲の穂がたわわに実り、さわさわと風にそよいで一斉に波うっている。その穂波にそってはるか彼方に何千羽とも数知れない雀の群れがパーッと飛び立つ。この豪華絢爛たる秋景のうちには底無き閑寂さがある。むら雀の喧騒のうちにも限りない静けさがある。逆に幽遠な根源が眼前にはたらき、形のない寂静が華麗な穂波や千羽雀となって動いている。

 大正5年晩秋、紫烟草舎畔の「夕照」のもとに現成した妙景である。体露金風万物とは一体である。父、白秋はこの観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し、赤貧に耐え、以降数年間の精進ののち、詩文「雀の生活」その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正10年8月刊行の歌集『雀の卵』で実現した。その「葛飾閑吟集」中の1首で、手蹟は昭和12年12月月刊の限定100部出版「雀百首」巻頭の父の自筆である。

    1970年 佛誕の日

北原 隆太郎

難解な解説である。

同じ歌の碑が安中の磯部簗にもある。

里見公園の裏から県道1号市川松戸線に向かうと、国府台天満宮があった。

国府台天満宮


国府台天満宮と辻切り行事

 この天満宮は文明11年(1479年)、当地の鎮守として、太田道灌持資(もちすけ)が建立したと伝えています。もと法皇塚の墳頂部に祀られていましたが、明治8年(1875年)大学校設立の用地として周辺地域が買い上げられた時、農家と共に現在地に移されました。

 この地域では古くから獅子舞・辻切りといった民俗行事が行われてきました。「辻切り」とは、人畜に危害を加える悪霊や悪疫の部落に侵入するのを防ぐため、部落の出入口にあたる四隅の辻を霊力によって遮断してしまうことから起こった名称です。

 辻切り行事は毎年1月17日、この天満宮境内で行われ、藁(わら)で2メートルほどの大蛇を4体作り、御神酒(おみき)を飲ませ魂入れをして、町の四隅にある樹に頭を外に向けて結び付けます。こうして大蛇は1年間風雨にそらされながら、町内の安全のため目を光らせているのです。

「私の旅日記」2004年〜に戻る