私の旅日記〜2004年〜
亀井院〜真間の井〜
手児奈(てこな)霊堂の隣に、亀井院がある。
亀井院
日蓮宗の寺である。
真間之井と亀井院
万葉の歌人高橋虫麻呂は、手児奈(てこな)が真間の井で水を汲んだという伝説を聞いて、
勝鹿(かつしか)の真間の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ
(葛飾の真間の井を見ると、いつもここに立って水を汲んだという手児奈が偲ばれる。)の歌を残した。この真間の井は亀井院にある井戸がそれであると伝えられている。
隣の手児奈(てこな)霊堂に歌碑がある。
真間の井
大島蓼太も真間の井を詠んでいる。
蓼太52歳の句。蓼太は江戸中・後期の俳人。信濃生れ。二世雪中庵桜井吏登に入門し、のち三世雪中庵となる。天明7年(1787年)、69才で歿す。
亀井院は寛永12年(1635年)真間山弘法寺(ぐほうじ)の十一世上人が弘法寺貫主の隠居寺として建立したもので、当初「瓶井坊」と称された。瓶井とは湧き水がちょうど瓶に水を湛(たた)えたように満ちていたところから付けられたものである。
その後、元禄9年(1696年)の春、鈴木長頼は亡父長常を瓶井坊に葬り、その菩提を弔うため坊を修復したのである。以来瓶井坊は鈴木院(れいぼくいん)と呼ばれるようになった。
長頼は当時弘法寺の十七世日貞と図り、万葉集に歌われた「真間の井」、「真間の娘子(おとめ)(手児奈)の墓」、「継橋」の所在を後世に継承するため、それぞれの地に銘文を刻んだ碑を建てた。本寺の入口にあるのが、その時の真間之井の碑である。
長頼没後、鈴木家は衰え、鈴木院の名称もまた亀井坊と改められた。これは井のそばに霊亀が現われたからといわれている。
北原白秋が亀井院で生活したのは、大正5年5月中旬からひと月半にわたってのことである。それは彼の生涯で最も生活の困窮した時代であった。
大正2年(1913年)5月、白秋は松下俊子と結婚するが、1年余りで離婚。大正5年に江口章子(あやこ)と再婚し、真間にある亀井坊(現亀井院)の庫裏の6畳間を借りて住むことになる。
白秋がいた頃の亀井院
米櫃に米の幽(かす)かに音するは白玉のごと果敢(はかな)かりけり
この歌は当時の生活を如実に表現している。こうした中にあって真間の井に関しては次の1首を残している。
蕗(ふき)の葉に亀井の水のあふるれば蛙(かわず)啼くなりかつしかの真間
亀井院に白秋の歌碑がある。
蛍飛ぶ真間の小川の夕闇に鰕(えび)すくふ子か水音立つるは
その後、江戸川を渡った小岩の川べりに建つ離れを借りて暮したが、これを紫煙草舎(しえんそうしゃ)と呼んでいる。
昭和2年(1927年)、水原秋桜子は真間の井を見ている。
連翹や真間の里びと垣を結はず
連翹や手児奈が汲みしこの井筒
葛飾や桃の籬も水田べり
『葛飾』
弘法寺へ。
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