芭蕉の句碑山 形


しばらくは花の上なる月夜かな

米沢市川井に桃源院という寺がある。


曹洞宗の寺である。

桃源院縁起

 鬼庭左月は源平時代の勇士齋藤別当実盛の末裔で、伊達晴宗、輝宗、独眼竜政宗の股肱の家臣として仕えた評定衆の筆頭であります。名は良直、通称周防、左月斎はその号です。

 桃源院は天文13年(1544年)左月斎良直により現在地に創建され、山号を和合山(のち和光山)と称し、開山は梓山松林寺三世・一華宗甫大和尚であります。その後独眼竜政宗が、仙台に移封されるとともに、桃源院も宮城県志田郡松山町千石本丸(現在、宮城県大崎市松山千石本丸)に移ることになりました。川井村桃源院は、当地に残った人達によって再興されたもので、曹洞宗寺院の命脈である法系は、瞬時も絶えることなく、聯綿として引き継がれています。

 当院に於ては、左月斎の法名自光院殿剣外参心大居士の尊霊を祀り、報恩供養を日々怠りなく修するよう口伝されています。

(宮城県図書館・茂庭氏公式記録)

本堂は改修中だった。

本堂の左手に芭蕉の句碑があった。


しばらくは花の上なる月夜かな

出典は『初蝉』(風国編)。

貞亨5年(1688年)春、「笈の小文」の旅の途上で詠まれた句。

『蕉翁句集』(土芳編)には「よし野にて」と前書きがある。

安政6年(1859年)10月、建立。

観音堂


本地身代り聖世観音縁起

 鬼庭左月良直公の始祖斎藤実良は下野那須に住居していたが、茂庭村屶振(なたぶり)の文五郎より、信達、余目、十八郷民に難をする大蛇の話を聞き、これを退治することになり人身御供に家臣紺野図書の妹さる姫をたてるのである。母は姫の安泰を念じて聖世音像を贈ったが、加護の霊験あらたかに大蛇退治も出来、さる姫の身も無事であった。姫は一度は仏に捧げた身であるとして茂庭村地蔵岩の西北に一宇を建てて聖観音を祀り、自分は尼僧となって観音様にお仕えして生涯を終わったという。

 後に左月公が先祖の菩提を弔うため川井の地に桃源院を創建されるにあたり観音堂もともに移されたものと思われる。

 現在は身代り観音、置賜廿三番札所として十方の信心を多く集めている。

(茂庭十三代記より)

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