芭蕉の句碑


作り木の庭をいさめるしくれ哉

垂井町に本龍寺という寺がある。


本龍寺山門


明治初期に金岩脇本陣門を移築したそうだ。

本龍寺本堂


真宗大谷派の寺である。

本龍寺に「作り木塚」があった。


   美濃垂井規外かもとに冬籠して

作り木の庭をいさめるしくれ哉

  出典は『蕉翁句集』

「真蹟懐紙」には「作りなす」とある。

文化6年(1809年)、建立。白寿坊書。

白寿坊は野村信我。美濃派(以哉派)七世道統。

 『諸国翁墳記』に「作り木塚 西濃垂井本竜寺内アリ 三井軒杵交造立」とある。

 垂井町指定史跡

作り木塚と芭蕉翁木像

 俳人松尾芭蕉は、本龍寺の住職玄潭(俳号 規外)と交友があり、元禄4年(1691年)冬に本龍寺で滞在し、

   作り木の庭をいさめるしぐれ哉

などの句を残している。

 本龍寺には文化6年(1809年)芭蕉のほか美濃派ゆかりの俳人傘狂(さんきょう)らの句碑を建て、作り木塚とよばれている。

 安政2年(1855年)時雨庵ができ美濃派十五世国井化月坊ゆかりの芭蕉翁木像も大切に保管されている。

垂井町教育委員会

本龍寺滞在中、規外の発句と芭蕉の脇がある。

芭蕉翁行脚の時、予が草庵を扣きて、作りなす庭に時雨を吟じ、洗ひ揚たる冬葱の寒さを見侍る折からに

木嵐に手やあてゝ見む一重壁

 四日五日の時雨霜月
   翁

『国の華』

傘狂の句碑


蜂の巣や知らぬきのふをあふながる

  「傘狂」は美濃派(以哉派)六世大野是什坊

化月坊の句碑


一二丁笠わすれたる清水哉

 元禄4年(1691年)冬、芭蕉は本龍寺滞在中に「雪見の像」を書残したという。

芭蕉翁、元禄四年の冬、我寺に来給て、ながき記念にせよと、雪見の像書置されし。今五七日の忌に、此像の前にかしこまりて、


  垂井
今からは雪見にころぶ人は誰
   規外

『後の旅』(如行編)

  いつしか「雪見の像」は失われたようである。

 安政5年(1858年)5月、武蔵の国熊谷の旗本高刀氏所蔵の木像を譲り受け、時雨庵に納めた。

時雨庵


芭蕉翁木像は大切に保管されて、非公開。

山口誓子は、本竜寺で芭蕉の句碑と芭蕉の木像を見ている。

 不破へ行く途中、垂井の本竜寺に芭蕉の句碑を見た。本堂の南側、いくつかある句碑の中にそれはあった。自然石に

   作り木の庭をいさめるしぐれ哉

と刻まれている。私はこの句碑に興味はなかったが、その前書の「美濃垂井規外のもとに冬籠して」を喜んだ。

 元禄四年十月、近江の膳所を出立、平田明照寺に泊り、美濃の垂井に来て、本竜寺の規外のところで冬籠をした。そして大垣に立ち寄り、千川の亭にも遊んで、江戸へ向って行ったのだ。

 そのとき、規外は

   木がらしに手をあてて見む一重壁

と詠い、芭蕉は

   四日五日のしぐれ霜月

と附けた。

 「木がらし」は伊吹颪だ。芭蕉はこの寺で暫く冬籠をしたものと思われる。

 この体験が千川亭の冬籠の句となったのだ。私はそう思う。

 私は本竜寺の本堂で、芭蕉の木像も見た。ほっそりした撫肩の芭蕉だった。


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