芭蕉の句碑


濡て行人もをかしや雨の萩

天祖神社から細い路地を行くと、横十間川沿いに龍眼寺(りゅうげんじ)がある。


龍眼寺の石塀に芭蕉の句が刻まれている。


濡て行人もをかしや雨の萩

反対側の石塀の左には榎本其角の句が彫られている。



つき見とも見えず露あり庭の萩

榎本其角は蕉門第一の高弟。

『花摘』に「つぼみとも見えす露あり庭の萩」とある。

右には大納言家長卿の歌。

ききしより見る目ぞまさるこの寺の庭に散りしく萩の錦は

大納言家長卿はどのような人か、よく分からない。

龍眼寺

 龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395年)と伝えられています。

 当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。



芭蕉の句碑があった。


濡て行人もをかしや雨の萩

出典は『泊船集』

 元禄2年(1689年)7月26日、『奥の細道』の旅の途次、石川県小松歓水亭の五十韻発句に「ぬれて行や人もお(を)かしき雨の萩」とある。

ぬれて行や人もお(を)かしき雨の萩
   芭蕉翁

 すゝき隠に薄(すすき)葺家
   亨子

 明和5年(1768年)、其日庵三世溝口素丸が建立したもの。都内の芭蕉句碑の中で最も古いものだそうだ。

本所上水端 慈雲山龍眼寺 庭中萩の茂の内

此寺を世俗萩寺と云

萩墳

濡て行人もをかしや雨の萩


句碑の下に水仙が咲いていた。


文政6年(1823年)9月、小林一茶は萩寺の句を詠んでいる。

萩寺 編笠の窓から見るや萩の花

『文政句帖』(文政6年9月)

 文化14年(1817年)6月18日、一茶は焦雨を訪れ、27日に江戸を立ち、上尾に泊まる。以後一茶が江戸に出ることはなかった。

落合直文の歌碑があった。


萩寺の萩おもしろしつゆの身のおくつきどころこことさだめむ

「つゆ」は「萩」・「おく」の縁語。

昭和38年(1963年)、復元。

落合直文は国文学者、歌人。号は萩之家。

文久元年(1861年)、陸奥国本吉郡(宮城県気仙沼市)に生まれる。

明治26年(1893年)、「浅香社」を創立。門人に与謝野鉄幹がいる。

石田波郷と石塚友二の句碑もあった。


槇の空秋押移りゐたりけり
   波郷

たかむなの疾迅わが背越す日なり
   友二

 石田波郷の句は『風切』に収録。『波郷句自解』に「一二本の槇あるのみ。然もきりきりと自然の大転換を現じてみせようとした。一枚の板金のやうな叙法。」とある。

 石塚友二は昭和10年に沙羅書店を開業。横光利一、川端康成らの作品や中村草田男、石田波郷の句集を出版。昭和12年、石田波郷の俳句雑誌『鶴』創刊に加わり、波郷亡き後の昭和44年からは『鶴』を主宰。

庭に白梅がきれいに咲いていた。


亀戸天神社へ。

芭蕉の句碑に戻る