石川啄木ゆかりの地


等光寺

東京メトロ銀座線田原町駅を降りて国際通りを行く。

路地に入ると、等光寺という小さなお寺がある。


等光寺


真宗大谷派の寺である。

等光寺に石川啄木の歌碑がある。


浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心

歌碑の脇に台東区教育委員会の案内があった。

石川啄木歌碑

台東区西浅草1丁目6番1号 等光寺

 石川啄木は明治19年(1886年)岩手県に生まれる。はじめ明星派の詩人として活躍した。しかし曹洞宗の僧侶であった父が失職したため一家扶養の責任を負い、郷里の代用教員や北海道の新聞記者を勤め、各地を転々とした。

 石川啄木が東京新詩社を訪問し、初めて与謝野鉄幹に接したのは明治35年(1902年)11月9日。翌日、与謝野晶子に会う。

 明治41年(1908年)、文学者として身を立てるため上京して創作活動に入り、明治42年からは朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、有名な石川啄木が浅草の賑わってる様子を歌に残しています。親友のおじが啄木の遺体を一時、等光寺に葬ったことからここに建てられました。明治43年12月には処女歌集『一握の砂』を出版する。生活の現実に根ざし口語をまじえた短歌は歌壇に新風を吹き込んだ。

 しかし苦しい生活の中で肺結核を患い明治45年(1912年)4月13日に小石川区久堅町の借家で死去した。(27歳)親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった縁で、葬儀は等光寺で行われ、啄木一周忌追悼会も当寺でおこなわれた。墓は函館市の立待岬にある。

 この歌碑は、啄木生誕70年にあたる昭和30年に建てられた。『一握の砂』から次の句が記されている。

浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心

台東区教育委員会

 土岐善麿(1885−1980)は歌人・国文学者。東京生まれ。号、哀果など。早大卒。社会に目を向けた生活派の歌人として活躍。また、ローマ字運動の中心的存在。歌集「NAKIWARAI」「黄昏に」「春野」、評論「田安宗武」など。

等光寺に「土岐」という表札があった。

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