石川啄木ゆかりの地


函館の立待岬に向かう途中に石川啄木一族の墓があった。


石川啄木一族の墓


『一握の砂』巻頭の歌が刻まれている。

東海の
 小島の磯の
    白砂に
われ泣きぬれて
  蟹とたはむる

東京都文京区の「太栄館」にも歌碑がある。

 明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。 啄木が函館に住んだのは明治40年(1907年)5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)(文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。 「死ぬときは函館で・・・・・」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年4月、病魔におかされて27歳の生涯を東京で閉じた。大正2年(1913年)3月、啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月彼の後を追うかのようにこの世を去った。

 大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や当時の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。

函館市

昭和6年(1931年)6月6日、与謝野寛・晶子は啄木の墓参に訪れている。

 啄木の墓を訪れた詩人西条八十が啄木に捧げた自筆の歌碑が啄木小公園にある。

石川啄木一族の墓の隣に宮崎郁雨と砂山影二の歌碑があった。

宮崎郁雨の歌碑


蹣跚(まんさん)
 夜道をたどる
    淋しさよ
 酒はひとりし
  飲むものならず

● 宮崎郁雨の歌碑

 宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18年(1885年)に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年に文芸結社苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)ができると、その同人となった。翌40年に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたって温かい援助を続け、42年、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。

 郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年に亡くなった。この歌は没後刊行された『郁雨歌集』の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43年(1968年)に函館図書裡会が建立した。

函館市文学館に宮崎郁雨の肖像画がある。

砂山影二の歌碑


  わがいのち
この海峡の浪の間に
  消ゆる日を想ふ
    ――岬に立ちて

● 砂山影二の歌碑

 砂山影二(本名、中野寅雄)は、大正7年(1918年)に函館で創刊された文芸誌『銀の壷』の同人として活躍した。

 石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられる。人生に懐疑的であった影二は、大正10年、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。

 この歌は『坊っちやんの歌集』の前文にあるもので、歌碑は昭和43年(1968年)、海峡評論社と函館図書裡会が建立した。

函館市


石川啄木ゆかりの地に戻る