森鴎外ゆかりの地
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森鴎外住居跡

東武曳舟駅から曳舟川通りを行き、桜橋通りに入ると、本所高校がある。


本所高校の前に墨田区教育委員会の史跡説明板があった。

森鴎外住居跡


 明治生まれの文豪森鴎外は、文久2年(1862年)津和野に生まれ、明治5年(1872年)11歳の時に父静男に伴われて向島小梅村の津和野藩亀井家の屋敷内に上京しました。 その後、屋敷近くの小梅村87番に暮らすようになり、翌年家族全員も上京し、現在地である小梅村237番の質商の隠居所で庭のこった茅葺の家を購入して移り住みました。弟篤次郎、妹きみ(小金井喜美子)も当時隅田川川辺にあった「牛嶋学校」に学び、父も亀井家の侍医のほか、自宅で患者も診ました。明治12年(1879年)千住に転居するまで、鴎外も多感な少・青年期の一時をここで過ごしていました。また、鴎外の号も隅田川に飛び交う都鳥(ユリカモメ)に因んだものと考えられます。

 なお、鴎外の最初の墓所は、亀井家の菩提寺でもあった向島弘福寺にありました。

都鳥(ユリカモメ)


 十一になった。

 お父様が東京へ連れて出て下すった。お母様は跡に残ってお出なすった。いつも手伝に来る婆あさんが越して来て、一しょにいるのである。少し立てば、跡から行くということであった。多分家屋敷が売れるまで残ってお出なすったのであろう。

 旧藩の殿様のお邸が向島にある。お父様はそこのお長屋のあいているのにはいって、婆あさんを一人雇って、御飯を焚かせて暮らしてお出になる。

「ヰタ・セクスアリス」

史跡説明板は平成17年3月のもの。

万治元年(1658年)、徳川家綱は小梅村で鷹狩りをする。

小林一茶も小梅村を句に詠んでいる。

鍬のえに鶯鳴や小梅村

『七番日記』(文化8年正月)

   小梅筋

かしましや将軍さまの雁じやとて

『七番日記』(文化9年9月)

水鳥の住こなしたり小梅筋

『七番日記』(文化9年10月[文化12年10月部])

弘福寺へ。

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