高村光太郎ゆかりの地
「智恵子抄詩碑」
人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の |
|||
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。 |
|||
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。 |
|||
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―― |
|||
砂に小さな趾あとをつけて |
|||
千鳥が智恵子に寄つて来る。 |
|||
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が |
|||
両手をあげてよびかへす。 |
|||
ちい、ちい、ちい―― |
|||
両手の貝を千鳥がねだる。 |
|||
智恵子はそれをぱらぱら投げる。 |
|||
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。 |
|||
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―― |
|||
人間商売さらりとやめて、 |
|||
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の |
|||
うしろ姿がぽつんと見える。 |
|||
二丁も離れた防風林の夕日の中で |
|||
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。 |
昭和九年五月より十二月末迄高村智恵子眞亀納屋に於て療養す 光太郎もたびたび病妻を見舞いこの砂浜にたち妻への愛とこの界隈の風物に凝って詩集智恵子抄中の絶唱「千鳥と遊ぶ智恵子」「風に乗る智恵子」などを生む この度九十九里町の有志相計り永く記念する為にこの碑を建つ 昭和三十六年七月 |
詩人であり、彫刻家として著名な高村光太郎は、妻智恵子の病に悩み、昭和9年5月より12月末迄の約8ヶ月を、この地千葉県九十九里町真亀納屋の実妹斉藤せつ夫妻の寓居「田村別荘」に天地療養させ、毎週東京から必ず見舞ったという。光太郎の絶唱「千鳥と遊ぶ智恵子」「風に乗る智恵子」随筆「九十九里浜の初夏」に克明に描かれている。 昭和36年地元の白涛俳句会より詩碑建立運動が起こり、さらに町ぐるみの運動に発展し、沢山の方々の浄財を得て、同年7月15日に序幕された。 この建立に高村家と光太郎記念会から一切を任された詩人の草野心平は、「千鳥と遊ぶ智恵子」を砂丘に再現し、そこから九十九里浜が一望できるように碑を配置するという画期的な構成を試みたのがこの詩碑の特徴である。 光太郎のペン字を拡大して彫刻したのは根府川石という名石、寄贈者は久我貞三郎、彫刻は東金市小川屋、碑陰の書は草野心平である。 |
私は、そこから、海岸沿ひに南下して、真亀納屋の高村光太郎の詩碑を見に行つた。 砂浜のただ中にその碑が立つてゐた。その詩は「千鳥と遊ぶ智恵子」だ。 人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の 砂にすわつて智恵子は遊ぶ で始まつて、智恵子と千鳥が戯れる。 最後は 二丁も離れた防風林の夕日の中で 松の花粉をあびながら私はいつまでも 立ち尽す で終つてゐる。私はその「二丁も離れた防風林」の中に詩碑が立つてゐたらいいのにと思ふのだ。碑は海に背をむけてゐるが、海に向いてゐる方がこの詩にふさわしい。 智恵子は大正三年、光太郎と結婚してから病気勝ちで、病気になると福島県二本松の実家に帰つてゐた。昭和六年、智恵子に精神分裂の症状が現れたので、昭和九年に九十九里真亀納屋に転地させ、光太郎は毎週東京から見舞ひに来た。 明治四十五年、女子大生だつた智恵子は犬吠岬へ写生旅行に来て光太郎と会つたことがある。又、九十九里には智恵子の親戚があつたりしたから、その海岸は二人にはゆかりある地だつたのだ。 しかし、智恵子の病気は快方に向はず、東京に帰つて来た。そして昭和十三年に病院で死んだ。光太郎が昭和二十七年、十和田湖に記念像を建てることになつたとき、光太郎は智恵子の裸像を作らうと思ひ立つた。光太郎は八年間彫刻から離れてゐて、七十歳になつてゐた。そのブロンズの二人の裸婦像は翌年十和田湖の休屋御前浜に建てられた。
昭和45年2月「九十九里浜行」 |