河東碧梧桐ゆかりの地


さ久ら活計た花屑乃中可ら一枝拾ふ

伊予鉄城南線市役所前下車。

城山公園側に河東碧梧桐の句碑があった。


さ久ら活計た花屑乃中可ら一枝拾ふ

『碧』に収録。

大正13年(1924年)の句。

碑陰に「昭和七年四月二十九日建立」とある。

 河東碧梧桐は松山市千舟町に生まれた。虚子と子規門の双璧で、子規没後、「日本俳句」の選者を継ぎ、やがて非定型自由律の俳句を唱えた。

 碧梧桐最初の句碑で、昭和6年松山刑務所(現在県立中央病院)内に、情操教育のため、虚子の句碑とともに建てられたが、昭和28年8月、十七回忌にこの地に移された。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

昭和35年(1960年)11月29日、山口誓子は碧梧桐の句碑を見ている。

 その帰途、城へ無かって市役所の前を通ったとき、広場に立っている碧梧桐の句碑を見た。

   さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ

 青色の、大きな自然石だ。

 私は驚いた。昭和十二年に、はじめて松山へ来て、刑務所に案内されたとき、私はこの句碑をその構内で見たからである。そのとき私は、花屑の中からまだ活けられる一枝を拾い出した、というこの自由律俳句は、刑務所にいる人々の救いになったろうと思い、いい場処にいい句碑が立っている、と思ったのである。

 それが刑務所から出て、市役所の広場に立っている。驚くのが当然だ。

 もともとこの句碑は、昭和七年、時の松山刑務所長が教化のために建てたものだ。それが後の所長によって外へ出された。「花屑」の「屑」がいけないと云うのか。

 書は例の六朝書体だ。不折のもそうだが、碧梧桐のこの書体が本当に六朝書体なのか。私は久しくこのことを疑問にしているのだ。

『句碑をたずねて』(四国・九州路)

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