一茶の句碑

諏訪神社


松蔭に寐て喰ふ六十餘州かな

信濃町役場から諏訪神社へ。


諏訪神社


4月になったのに、境内には雪が残っている。

諏訪神社は一茶の氏神である。

諏訪神社にも一茶の句碑があった。



松蔭に寐て喰ふ六十餘州かな

『七番日記』(文化9年2月)の句。

句碑の辺りも雪が多い。

諏訪神社と一茶句碑

 柏原の鎮守の森、諏訪社は寛永11年(1634年)ごろには創建されていました。祭礼のときには、歌舞伎や相撲が催され、近在の人々でにぎわい、一茶も見物に訪れました。

 この一茶句碑は、文政12年(1829年)一茶三回忌に、弟弥兵衛や門人等によって柏原宿の入口に建立された最初のものです。その後、明治10年(1877年)に、現在地に移転されました。

 俳句は『七番日記』文化9年(1812年)の作で、碑文は、柏原村などを支配していた中野代官所手付大塚庚作によって書かれています。

文化13年(1816年)9月9日、一茶は諏訪神社に参る。

九 晴 参氏神

『七番日記』(文化13年9月)

 天保3年(1832年)、小林葛古は善光寺から直江津に向かう途中、柏原で一茶の句碑を見ている。

 ○牟礼より柏原二里。柏原より六丁手前古間宿なり。両宿隔番所のよし。柏原入口左の方一茶の碑あり。

   松影に寝てくふ六十余州かな   一茶翁

『五智まうで』

古い句碑で、文字は読めない。

 この字は中野代官所役人で門弟でもあった大塚揆の揮毫になるもので、はじめ文政12年に建てられた時は北国海道の坂道の途中だったが、明治11年の天皇巡幸の時、これは60餘州の民がみな楽々と松陰に寝て食うという徳川幕府善政をたたえたような句だからとの理由で、役人によって現在のところに移されたのだという。……

『信濃路文学散歩』(野田宇太郎)

 一茶は文化9年の正月を布川で迎える。23日に布川から守谷の西林寺に入り、2月12日には流山に入るというように、俳諧行脚を続けていた。

賀治世

松陰に寝てくふ六十よ(余)州哉
   一茶

   鶴と遊ん亀とあそばん
   鶴老


鶴老は下総国相馬郡籠山(こもりやま)西林寺第64世義鳳師の俳名。

諏訪宮に栗の古木があったようだ。

栗の古木

 立よらば大木の下とて、大家(たいけ)には貧しき者の腰をかゞめて、おはむきいふもことはりになん。爰(ここ)の諏訪宮に、大きさ牛をかくす栗の古木ありて、うち見たる所は、菓(このみ)一ツもあらざりけるに、其下をゆきゝする人、日々とり得ざるはなかりけり。


小林一茶旧宅へ。

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