2023年愛 媛

今治城〜檜垣俊幸翁〜
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JR予讃線特急「いしづち12号・しおかぜ12号」松山駅


今治駅下車。

今治市通町の今治城へ。


今治国際ホテルが見える。

檜垣俊幸翁


平成23年(2011年)4月、建立。

今治市名誉市民 桧垣俊幸荻翁領徳碑像

 桧垣俊幸氏は昭和3年、造船業を営む父正一、母ハルヨの三男として小浦町に生まれた、幼少よりの夢、船造りを志して14歳で今治造船株式会社に入社、造船業に身を投じられました。以来全霊を傾注し、不暁不屈精神で「船造り一筋」に歩まれ、建造量日本一の「今治造船グループ」を築き上げられました。

 この間、社団法人日本造船工業会副会長、今治商工会議所会頭など業界団体の要職を歴任され、永年に亙り造船海運業の発展並びに県勢・市勢の進展、地域経済・商工業の振興に尽力されました。時に、平成6年に開催された今治城築城・開町400年祭では、請われて実行委員会会長に就任され、藤堂高虎公の銅像建立、今治城鉄御門の再建等、余人をもって成し得なかったであろう数々の大事業を完遂されました。また、今治市と越智郡11町村の合併に際して、委員として難題解決に尽力され、他に類を見ない海事産業が集結する「海事都市今治」の誕生に貢献れました。

 このようなご功績により数々の栄誉に浴されています。

    平成14年4月 勲二等瑞宝章受章
    平成17年11月 愛媛県功労賞受賞
    平成20年7月 今治市名誉市民の称号受称

 83歳を迎え、愈々ご壮健で尽きることのない船造りの夢を追い求める氏の偉業を顕彰すると共に、「海事都市今治」の限りない繁栄を願いこの像を建立いたします。

社団法人日本造船工業会 会長 元山登雄

鉄御門


藤堂高虎公の銅像


 平成16年(2004年)9月、今治城築城・開町400年祭実行委員会・今治市建立。中村晋也制作。

左側から


今治城


今治城は日本100名城No79である。

首倡功


今治綿業の父 矢野七三郎について

 矢野七三郎は安政2年(1855年)越智郡宮脇村(現在の大西町大字宮脇)に父節太母美喜の長男として生まれた幼名は通正という

 少年時代地域の学識者として名高かった山本五左衛門の薫陶を受け温厚篤実にしてしかも進取の気象にに富んだ人柄を形成した

 青年期に入ると父親を援けて家業の海運業や酒の醸造業に努め事業家として幅広い経済知識を身につけた

 明治12年(1879年)に四国最初のキリスト教会が今治の恵比須町に創立されたがそれを機会に七三郎はキリスト教に入信し新しい西欧思想を身につけた同志社大学の創始者新島襄や文豪徳富蘆花と知り合ったのもこの頃である

 とりわけ宣教師横井時雄とは親交が深く七三郎が事業家の素養を培ったのはこの横井時雄と伯父の柳瀬義冨に負う所が大きい

 青年実業家矢野七三郎が最初に瞠目したのは西洋における産業文明の発達であって当時衰退していた織布(家庭内職による小幅白木綿)を近代化し尚かつ企業化することであった

 同志数名と共に紀州を始め先進企業地を見て研究し艱難辛苦の末これを企業化することに成功した

 明治19年(1886年)七三郎は伯父柳瀬義富の援助を得て興業舎を設立し伊予ネルの生産を開始した

 多忙な日常業務のかたわら彼は後進の育成にも力を注いだためこの今治地方には多数の織布工場が出現し今日の綿織物タオル染色縫製等繊維産業の基礎を築いた

 しかるに未来に向かって扉を押し開いたこの若者を天は惜しげもなく天上に召しかえしたのである

 すなわち明治22年(1889年)12月24日の深夜自宅で就寝中に突如凶賊に襲われ不運にも白刃の犠牲となった

 享年は35歳惜しんでも余りある青年実業家の夭折であった

   今治産業の黎明期を築いた矢野七三郎
   彼の偉大なる業績は永遠に不滅である

台座にある「首倡功」の意味は「首(はじめ)て功を倡(とな)う」と読み偉大なる創始者に贈られる尊敬の言葉である

矢野七三郎の像


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