明治・大正期の実業家であり、金融事業を中心とする安田財閥を創設した安田善次郎翁は、天保9年(1838年10月9日に、この地で誕生しました。父善悦は、富山藩の最下級の武士の身分を得たものの、半農半商の貧しい生活であったため、善次郎翁は農業や行商に精を出し家計を助けました。 善次郎翁14、5歳の頃、身分の高い富山藩士たちが、用達商人に膝を屈するのを見て、お金のもつ力と時代の移り変わりを悟り、商人として立身出世を志すに至りました。 19歳で江戸に出た善次郎翁は、勤勉に働き、倹約に努めることを信条にして初志を貫き、安田銀行(現みずほ銀行)、帝国海上保険(現損害保険ジャパン日本興亜)、共済生命保険(現明治安田生命保険)など、今日の我が国の著名な企業を設立致しました。 また、日本銀行の設立にかかわり、設立後は理事監事を歴任し、我が国の発展に多大な貢献をし、大正10年(1921年)、神奈川県大磯町で82歳の生涯を閉じました。 ここ善次郎翁の生誕の地は、昭和35年(1960年)9月に翁の嫡孫である安田一氏から当市が児童公園として寄付を受けたものです。なお、当園内にある「松翁安田善次郎君誕生地」の碑文は、善次郎翁と旧縁が深く、日本銀行総裁、大蔵大臣、内閣総理大臣を歴任した高橋是清翁の揮毫によるものです。碑は善次郎翁没後の昭和11年(1936年)3月に設置されました。是清翁はその年に起きた2・26事件で凶器に遭って没しましたが、揮毫の書はその数日前に届けられたものです。 なお、この説明板は松翁記念財団より寄贈されたものです。
富山市 |
天保9年(1838年)10月9日、当地(越中国富山城下鍋屋小路)に生まれる。 安政5年(1858年)、2度の出奔を企てた後、漸く両親の許しを得て江戸に出て玩具問屋に奉公する。 元治元年(1864年)3月2日、日本橋人形町に海産物商兼両替商の安田屋を開店。 慶応2年(1866年)4月14日、日本橋小舟町に移転、両替商に専心することとし、安田商店と改称。 明治13年(1880年)1月1日、安田銀行(現みずほ銀行)を開業。 明治13年(1880年)2月15日、共済五百名社(現明治安田生命)を起こす。 明治15年(1882年)6月27日、日本銀行創立御用掛を命じられる。 明治17年(1884年)12月29日、日本銀行開業にともない理事を命じられ、割引、計算、株式の3局長を兼任する。 明治22年(1889年)8月17日、日本銀行監事・建築事務主管を命じられる。(当時、高橋是清は建築事務主任で、この時より親交を結ぶ) 明治26年(1893年)11月5日、帝国海上保険(現損害保険ジャパン日本興亜)を開業。 明治39年(1906年)4月1日、日露戦争の功により勲二等瑞宝章を授けられる。 明治41年(1908年)、浅野総一郎らと鶴見埋立組合を結成し、京浜臨海部の埋立事業に着手。 大正10年(1921年)、市政会館(日比谷公園内)設立のため350万円の寄付を申し出る。 大正10年(1921年)7月4日、東京帝国大学への講堂寄付が受理される。 大正10年(1921年)9月28日、大磯の別荘で奇禍にあい急逝。 昭和11年(1936年)3月、当地に大蔵大臣高橋是清の揮毫による生誕記念碑が建立。 昭和35年(1960年)9月、嫡孫安田家当主安田一氏が当地を市に寄付(同氏夫人百合子氏は高橋是清の孫にあたる)。 昭和36年(1961年)6月21日、当公園開園。 |