
|
昭和14年、東京虎ノ門にて割烹旅館として開業、当時は川端康成が定宿としていたそうだ。 昭和20年、現在の紀尾井町へ移築。 |

|
この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永14年(1637年)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。 尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、慶長8年(1603年)甲斐府中藩主、ついで慶長12年(1607年)尾張清州藩主を経て、後に名古屋藩主となり、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。 |

|
左手の喰違見附跡は、江戸時代初期の慶長17年(1612年)に甲州流兵学者の小幡景憲によって縄張りされたと伝わる、江戸城外郭門のひとつです。通常江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣を巡らしたものとなりますが、ここは土塁を前後に伸ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)構造となります。 この地域は、二つの谷に挟まれた、江戸城外堀の中では最も高い地形に立地するため、寛永13年(1636年)築造の江戸城外郭門に先駆けて、江戸城防御の要として構築されたと考えられます。現在は一部土塁が削り取られているものの、その形状は保存されており、往時の様子を留めています。この遺構は江戸城築城史を捉える意味で重要です。
平成21年 千代田区 |


|
左側にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の石垣の一部です。江戸時代の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。詳しい説明は、右に坂を登った角にある説明板に記されています。
千代田区教育委員会 |

