私の旅日記2011年

頼朝の井戸〜秋桜子の句碑〜
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裾野市須山の国道469号沿いに「頼朝の井戸」がある。


「頼朝の井戸」


 建久4年(1193年)、将軍源頼朝公は、武威を天下に誇示し、兵の士気をも鼓舞せんものと、駿河国藍沢(御殿場地方)から富士野(上井出地方)に至る広大な富士山の裾野で大規模な巻狩を催した。

 『吾妻鏡』によると、巻狩は建久4年5月8日から6月8日に至る1ヶ月に及んだが、5月8日から15日まで藍沢(御殿場)で、其后は富士野(富士宮上井出)に於て行われたという。

 将軍頼朝公は、5月8日、直属の北条義時、畠山重忠、三浦義村、和田義盛等1万1千騎を従えて鎌倉を出発し、足柄を越えて藍沢に入り、御宿─須山─十里木─富士野と途々狩猟や酒宴に明け暮れたのであるが、参加するもの15万余騎、将軍の出陣を迎えた諸武将達は、その眼前で夫々力の限り数々の大活躍を展開したのであった。

 また、藍沢の庄の豪族で深良に而して葛山に居を構えた大森、葛山の一族も参加し、特に葛山六郎惟重は、5月8日将軍の御宿を承ったことが大森系図に記載されているので、葛山舘跡の往時の盛事が偲ばれる。

 斯くの如く富士の巻狩は空前の壮挙だったので、之に因んだ口碑や遺跡は御殿場市から裾野市にかけて或は地名として、或は伝説としてが数多く残されている。

 頼朝の井戸も付近の御本陣跡と共に巻狩の遺跡の1つで、往時は巨大な厳間から浪々たる湧水が小湖をなしていた。その清冽な湧泉を汲んで蘇生の思いだった将軍は、手にした朱色の椀を池中に沈めて水神に献じたと伝う。

 以来、公が心をこめられた朱色の椀が池底に認められる折は、天変地異の前兆だったと古老に伝えられた。

裾野市

「頼朝の井戸」の碑


頼朝の井戸の奥に水原秋桜子の句碑があった。


ほとゝぎす朝は童女も草を負う

 水原秋桜子は、大正7年東京帝大医学部を卒業した。宮内省出仕の産科医で、近代俳句界の最高峰と仰がれ、8千に余る会員を擁する『馬醉木』の主催者であった。

 この句は、昭和34年6月、十里木で開かれた駿東郡醉木会主催の探鳥句会で詠まれた句です。

 先生の句碑は、国内のみならず、ドイツ、アメリカにも建立されています。

富士山資料館

『秋桜子句碑順礼』(久野治著)によれば71番目の句碑である。

 表記の句は第十五句集「旅愁」(琅カン(※「玉」+「干」)洞)に掲載されている。昭和三十四年(一九五九)六十七歳のとき秋櫻子は、愛鷹山麓十里木にての三句として「鳥寄せをきく扮装(いでたち)や梅雨の闇」さらに「鳥寄せや不二もうかべる夜半の月」に続いて詠まれたものである。

 そのとき渡辺徳逸は御殿場野鳥の会創立以来の松本破夢の奨めで鳥寄せの夜の頼朝の井戸附近に咲いていた山ぼうしを覚えており、秋櫻子の「鳥寄せや夜眼ほのかなる山法師」の句が好きで、何れの日に句碑を建立すべく考えていた。その後昭和五十三年(一九七八)に富士山資料館の完成をみたので、地元の文化的発展を期して句碑建立にいたったものと言われる。

『秋桜子句碑順礼』

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