2016年静 岡

東海道〜日坂宿〜
indexにもどる

佐夜の中山峠を下る。

東海道五拾三次 日阪(にっさか)


浮世絵版画   安藤広重作
 狂歌入東海道

倭園琴桜

あたらしく今朝にこにことわらび餅
      をかしな春の立場なるらん

 江戸時代末期になると、江戸を中心として諸国への街道が整備され、物見遊山の旅が盛んに行われ、庶民の関心がそれまでの享楽の場から戸外へ移るにつれて風景画が多く描かれるようになった。

 この浮世絵は、広重が天保3年(1832年)「保永堂版東海道五拾三次」に続き、天保13年(1842年)頃に、視点を変えて風景をとらえた「狂歌入東海道」の日阪である。

秋葉常夜燈


 日坂宿はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防)の秋葉信仰が盛んであったようです。当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講を結成し分社や常夜燈などを各所につくりました。

 秋葉常夜燈は秋葉神社に捧げる灯りをともすためのもので、辻などの人目につきやすい場所に建てられました。

 日坂宿にはここ本陣入口の他、相伝寺境内と古宮公会堂脇と当時3基建っておりました。ここの常夜燈は安政3年(1856年)の建立でしたが、老朽化が進みましたので平成10年(1998年)に撤去し、改めて復元いたしました。

 秋葉山のほかに駅中安全とあるのは、火災を恐れる気持ちの強さを示しているといってもよいでしょう。

ここは宿場町「日坂の駅」

 東海道五十三次品川宿から数えて25番目の宿「日坂」

 江戸から54里余。日坂は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていました。

 「日坂宿」の初見は、鎌倉時代、延慶3年(1310年)の「夫木和歌抄」といわれています。

 慶長6年(1601年)徳川家康による、東海道の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在になりました。助郷43村の協力で、伝馬100疋と伝馬人100人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきました。

 天保14年(1843年)の記録によれば、家数168軒、人口750人とあり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋33軒がありました。

 大井川の川止めや、大名の参勤交代などで小さな宿場町ではありましたが、かなりの賑わいであったと思われます。

 宿場の東口から西口までの距離は、およそ6町半(700メートル)町並みの形態は現在もあまり変わっていません。

日坂地域振興の会
日坂宿おこし委員会

本陣跡


 江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿にあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。

 日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。

 本陣の敷地はおよそ350坪・建坪220坪、門構・玄関付の建物でした。

 嘉永5年(1852年)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治3年(1870年)に店を閉じました。

 その後の学制頒布に伴い、明治12年(1879年)より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されましたが現存しません。

日坂地域振興の会
日坂宿おこし委員会

問屋場跡

 宿場では、幕府などの貸客を宿場から次の宿場へ継ぎ立てることになっており、そのための人馬の設置が義務づけられていました。

 宿駅でこの業務を取り扱う職務を問屋、その役所を問屋場と言います。問屋は宿内で最も大切な役職でした。

 日坂宿の問屋場はかつてこの場所にあり、「東海道宿村大概帳」によると、日坂宿の宿役人は問屋1人・年寄4人・請払2人・帳附5人・馬指3人・人足割3人・同下役6人です。問屋場へは問屋・年寄をはじめ宿役の者が毎日交代で1人ずつ詰め、重要な通行があった時には全員で業務に携わったとのことです。

 当時の建物、その他の遺物は現存しません。

脇本陣「黒田屋」跡


 日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かが務めました。

 ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」がありました。

 黒田家の拵えは文久2年(1862年)の宿内軒並取調書上帳に

   間口八間   奥行拾五間
   畳百壱畳   板鋪十五畳
   惣坪数〆百弐十坪

と記されております。

 また、明治天皇が街道巡幸の際、明治2年3月21日と明治11年11月2日の2回にわたりここ脇本陣で小休止なされました。

藤 文


藤文・・・日坂最後の問屋役を務めた伊藤文七邸

 商家で屋号は藤文。

 伊藤文七(号は文陰)翁は安政3年(1856年)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860年)から慶応3年(1867年)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。

 維新後の明治4年(1871年)には、日坂宿他27ヶ村の副戸長に任ぜられました。

 その間、幕府の長州征討に50両を献金、明治維新の時は官軍の進発費として200両を寄付しております。

 明治4年(1871年)の郵便制度開始と同時に郵便取扱所を自宅・藤文に開設、取扱役(局長)に任ぜられました。日本最初の郵便局の一つと云われています。

 その孫、伊藤文一郎氏は明治37年(1904年)から39年(1906年)、大正6年(1917年)から8年(1919年)、昭和3年(1928年)と3期にわたり日坂村村長を務め、当時珍しいガソリン式消防ポンプを村に、世界一周旅行記念として大地球儀を小学校に寄贈するなど村の発展や村民の国際意識啓発に尽力しました。

 明治9年(1876年)11月には昭憲皇太后、翌10年(1877年)1月には英照皇太后が日坂宿御通過の時、ここで御休憩なされました。

 この建物は藤文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期に建てられたもので、修復された蔵は当時何棟かあったと云われているうちの1棟です。

 この土地家屋は平成10年(1998年)に文七翁の曾孫伊藤奈良子さんの遺志により掛川市に寄贈されました。

 文久弐年(1862年)の宿内軒並取調書上帳では今の伊藤家は藤文・かえで屋に分かれておりました。

萬 屋


 江戸時代末期の旅籠。嘉永5年(1852年)の日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建されました。再建時期についての明確な史料はありませんが、建物内部の構造体や壁に貼られた和紙に書かれていた「安政三年甲辰正月・・・」から考えまして、安政年間(1854〜1859)のしかも早い時期かと思われます。

 同じ宿内で、筋向かいの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠でした。

 一階の裏手に抜ける土間がないこと、台所が不明であること、2階正面の出格子が2階床と同じ高さで、腰高の手すりが付き、大変開放的あることなどが、この旅籠の特徴です。又、1階正面の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店構えの仕様であり、日坂宿では昭和20年代まで数多く見られました。

 尚、文久2年(1862年)の宿内軒並取調書上帳(古文書)には「萬屋」について次のように記されています。

 今回の修理では、主に1、2階の正面を復原することを目的としたため、内部は大きな復原をしませんでしたが、調査結果は図の様になり、階段位置が反対であったり、2階が4間あったと思われます。文久2年の記載との違いは、この記載が旅籠の営業部門のみを記載しているためです。記録に見られる建坪と解体調査の結果から考えて、食事を供しない宿であったとも思われます。

川坂屋


 大坂の陣(慶長19年の冬の陣と翌年の夏の陣)で深手を負った武士太田与七郎源重吉は長松院で手当てを受け、その後日坂に居住しました。

 旅籠屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間(1789〜1800)に問屋役を務めたこともある斎藤次右衛門が始めたと伝えらています。

 現存の建物は宿場の殆どが焼失した嘉永5年(1852年)「日坂宿大火」後に再建されたものです。

 宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を遺す数少ない建物の一つです。精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、当時建築にあたっては江戸より棟梁を招いたとのことです。

 また、「川坂屋」には脇本陣などという肩書きのついた資料は見られませんが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられていることは、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせます。

 旅籠屋としては本陣と同じ明治初頭に廃業したようですが、当家に伝わる維新政府の高官、山岡鉄舟・巌谷一六・西郷従道などの書から推測しますと廃業以後も要人には宿を提供したと思われます。

 その後平成5年(1993年)まで斉藤家の住居として使われ、平成12年(2000年)修理工事が竣工し、現在に至っております。

 敷地は300余坪ありましたが、昭和25年(1950年)の新国道開通で分断され、その後、平成7年(1995年)のバイパス工事により明治元年(1868年)に掛川城主太田侯より拝領した「元掛川偕楽園茶室」も移転を余儀なくされました。

 茶室は平成15年(2003年)母屋の北側の地に復原されました。

日坂宿の高札場


 幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、その掲げられた場所を高札場といいます。

 高札場は人々の注目をひきやすい所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂敷地内にあり、下木戸の高札場ともいわれていました。

 高札の内容は日坂宿が幕領であったため公儀御法度(幕府法)が中心で年代によって若干の書き替えがありました。

 ここに掲げられている八枚は「東海道宿村大概帳」の記録に基づき天保年間のものを復原いたしました。

 高札場の大きさ 「高さ二間、長二間、横七尺」は日坂宿の「御尋ニ付申上候」書付(天保14年)によりました。

 高札小史

 ◎正徳元年(1711年)日坂宿の高札場設けられる。このときの高札5枚(親子・切支丹・火付・伝馬・毒薬)は幕末まで続いた。

 ◎慶応4年(明治元年・1868年)太政官布告により従来の高札を撤去し新たに5枚の高札(五傍の掲示)を掲げた。

 ◎明治6年(1873年)高札が法令公布の方式としては適さないとの見地から撤去された。

下木戸(しもきど)

 江戸時代、治安維持のため、東西の入り口には木戸が設けられていました。大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では川が門の役割を果たしていました。

 古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったときは、宿場の治安維持のために橋をはずしたとも伝えられています。

 また、宿役人の管理下にあった高札場が木戸の機能を果たしておったという説もあります。

2016年静 岡〜に戻る