私の旅日記

涼み松〜芭蕉の句碑〜
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佐夜の中山峠の旧道は白山神社の先で車輌侵入禁止。

旧道を歩く。

馬頭観世音

佐夜の中山峠には、多くの伝説が残されていますが、その一つに蛇身鳥退治の物語が言い伝えられています。

この馬頭観世音は、蛇身鳥退治に京の都より下向して来た、三位良政卿が乗って来た愛馬を葬ったところとされています。

妊婦の墓

松の根元で自害した妊婦小石姫(三位良政と月小夜姫の間に生まれた子)を葬った所で、墓碑に「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・・・・旧跡」と刻してあります。

涼み松


小夜の中山夜泣石のあった駅路の北側に大きな松があり、松尾芭蕉がこの木の下で「命なりわずかのかさの下涼み」と詠んだと言います。それよりこの松を涼み松と呼び、この周辺の地名も涼み松と称されるようになりました。この句は延宝4年の「江戸広小路」に季題下涼み夏に記され、帰京の途次の作と記されています。

涼み松の芭蕉句碑


命なりわずかのかさの下涼み

さらに行くと、道端の茂みの中にも芭蕉の句碑があった。


馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり

出典は『野ざらし紀行』

貞享元年(1684年)秋、江戸から伊賀へ帰郷の途次詠まれた句。

早立ちの馬上で、馬ともども目覚めが悪く残りの夢を見るようにとぼとぼと歩いている。

有明の月は遠くの山の端にかかり日坂の里から朝茶の用意の煙が細く上がっている。

丘虎の尾(おかとらのお)が咲いていた。


サクラソウ科の花である。

夜泣石跡


 妊婦の霊魂が移り泣いたという石(夜泣石)が、明治元年までここの道の中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。

 その後明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。

「現在の位置」は国道「小夜の中山トンネル」横の小泉屋の裏手だそうだ。

久延寺の「夜泣石」とは別のもの。

東海道五拾三次 日坂


浮世絵版画 安藤広重作
保永堂版 小夜の中山

 広重は天保3年(1832年)、幕府の行列に随行して東海道を旅したが、その体験や印象を描いた「保永堂版東海道五拾三次」はたいへんな好評を得、つぎつぎに多くの「東海道もの」を発表した。

 その中で特にすぐれていると思われるものは、天保13年(1842年)頃の「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。

 これらの続絵のなかの日坂、掛川を見ると、日坂はほとんど小夜の中山と夜泣石が描かれており、掛川は大池の秋葉山一の鳥居と常夜灯が描かれている。

 広重が掛川を旅して、一番印象的で絵になる風景だったのであろう。

「二の曲り」と「沓掛」


古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ・・(掛川誌稿)」に見られる「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの旧カーブを指しています。

「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で草鞋や馬の沓を山の神などに手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因るといわれています。

日坂宿へ。

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