この地にはじめて花菖蒲が伝来したのはいつの頃か明らかではありませんが、一説によると、室町時代堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて培養させたのが始まりとも、文化年間(1804〜1817)堀切村の百姓伊左衛門(小高氏)が花菖蒲に興味を持ち、本所の旗本万年録三郎から「十二一重」を、花菖蒲の愛好家松平左金吾(菖翁)から「羽衣」「立田川」などの品種を乞い受け繁殖させたのが始まりとも言われています。 堀切で最初の菖蒲園は、江戸時代末期に開園した小高園で、明治に入ると武蔵園・吉野園・堀切園・観花園などの菖蒲園が開園しています。この堀切菖蒲園は堀切園の跡です。 堀切の花菖蒲の様子は「江戸百景」に数えられ、鈴木春信・安藤広重などの著名な浮世絵にも描かれています。また明治には『東京遊行記(明治39)』『東京近郊名所図会(明治43年)』などに次々と堀切の菖蒲園が紹介され、全盛期は明治中期から大正期頃だと思われます。
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花菖蒲 かがやく 雨の 走るなり |
昭和59年6月20日、当堀切菖蒲園に遊び、この句をよんだ。先生は明治33年熊本に生まれ、高浜虚子に師事。昭和22年、俳誌「風花」を創刊主宰し、今日に至る。昭和47年、勲四等宝冠章を受け、昭和55年、文化功労者となり、昭和59年、日本芸術院賞を授けらる。句集「紅梅」ほか多数の著書がある。 |
天日に 菖蒲の花の 白まぶし |
ほりき里能さとのあやめは老まつに ちよをちきりてさ支さかゆら舞 |
この碑には、明治から大正初期の宮内大臣、渡辺千秋が武蔵園に来遊して詠んだ和歌一首が刻まれています。 渡辺千秋(1843〜1921)は、天保14年(1843年)に信州高島藩士の子として生まれました。明治期に入ると鹿児島県令などを歴任したのち、明治25年(1892年)に内務次官となり、27年には貴族院議員に勅選され、さらに宮内大臣に任命されたのは明治43年(1910年)のことでした。こうして千秋は政府高官として活躍しましたが、その一方で『千秋歌集』を著すなど歌人としても著名な人で、彼の多彩な才能がしのばれます。 なお、この歌碑はもともとは明治35年(1902年)に武蔵園主吉木磯吉によって建てられたものですが、武蔵園が廃園となり、幾多の経緯を経て、平成24年(2012年)奥村敞氏から区へ寄贈され、現在に至っています。
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