『万葉集』(巻1−23) |
高市黒人が近江の旧跡をおとずれたのは、「壬申の乱」(672年)のあと20数年を経た頃であろうか。荒都と化したこの大津の宮址ににたたずみ、かつて都として栄えた5年間に想いを馳せて詠んだ歌である。 |
するまゝにまかしおきくれ野菊濃し 十月十二日。唐崎を横切り近江神宮にて俳句會。宮司平田貫一夫妻 に面會。この夜大津紅葉館泊り。
『七百五十句時代』 |
湖岸の国道を琵琶湖ホテルのところまで下りて来て、そこから右へ折れて突き当ると、近江神宮である。境内に入ってあてずっぽうに右の方へ走っているとき、高みの茂みの中に句碑を素早く見つけた。 登ってよく見ると、白っぽい御影石で、部厚く、大き過ぎるほど大きい。 から崎の松は花より朧にて 本福寺蔵版「千那」はこの句を大津東今颪町の本福寺別院の作とする。千那宛ての手紙に、芭蕉は、この句を「其元にての句」と云っているからである。千那は堅田の本福寺を継ぐまではその別院にいた。貞亨二年、京から来た芭蕉を千那はそこで迎えたのだ。その町は浜大津の山手、そこからは唐崎が真北に見渡される。 (中略) 昭和三十二年の建立。 この句碑にとって近江神宮はゆかりの地ではない。しかしこの句碑は大津市内のどこかになければならぬのだ。
『句碑をたずねて』(近江路) |