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天文11年(1542年)、太田氏資は太田資正の嫡男として誕生。 永禄6年(1563年)、従五位下大膳大夫に任ぜられる。 永禄7年(1564年)、父と弟を居城の岩付城から追放して家督を継ぐ。 永禄10年(1567年)3月8日、母芳林院逝去。松山の地蔵寺を現在地に移転し、芳林寺に改称した。 永禄10年(1567年)8月23日、三船山合戦で戦死。享年25歳。太崇院殿昌安道也大居士。 |

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岩槻城は、室町時代に古河公方足利成氏の執事扇谷(上杉家)持朝の命を受け、長禄元年(1457年)太田道真・道灌父子が築城したと伝えられる。 文明18年(1486年)、太田道灌が神奈川県伊勢原にあった主君・上杉定正の館で暗殺された時、父の道真と道灌の養子・太田資家(岩槻城主)が伊勢原に行き、道灌の遺骨や遺髪をもらい受けてきたと言われている。 そして、それらは埼玉県越生町の龍穏寺と芳林寺に分けられて丁重に葬られ、今日まで供養されている。 また、芳林寺は太田三楽斎資正が、東松山城(埼玉県東松山市)の城代難波田正直の娘婿として活躍していた頃に、同地ゆかりの地蔵堂を岩槻に移したと伝えられ、資正の嫡男・太田氏資(岩槻城主)の時代に名前を地蔵堂から「芳林寺」と改めて、母・芳林妙春尼の御霊をはじめ、多くの合戦で亡くなった将兵や町内外の檀家の方々の御先祖の御霊を供養して、現代まで続いている由緒ある禅寺である。 |



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平成23年(2011年)3月、東日本大震災により被災。 平成29年(2017年)10月、新築落慶。 |
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当寺は釈迦如来を本尊とし、静岡県藤枝市にある龍池山洞雲寺の末寺にして、覚翁文等禅師(洞雲寺四世)を開山とする禅刹である。 境内墓地に応永、享徳年号の墓石が発見されていることから、古くから当地に寺院があったことが思料されるが、初伝によると、比企郡松山城に在った太田道灌公が延命地蔵尊を尊信し、松山城を築くにあたり堂宇を建てこれを祀り大平山地蔵堂と称したが、その後、文明18年(1476年)7月26日道灌公が主君・扇ヶ谷上杉定正に謀殺されるや、その遺骨(遺髪とも云う)を堂側に埋葬して、香月院殿春苑道灌大居士と諡したのであった。 しかし、永正17年(1520年)8月火災に罹り烏有に帰したため、その後、曾孫太田三楽斎資正公は居城であった太田道真公・道灌公父子が築城した岩槻城下の当地にこれを移し、再建全く成って大鐘を掛け宝殿が空にそびえたという。そして50石を寄進され常住の資に充てられた。 なお、道灌公が相州伊勢原の上杉定正の館で暗殺された時、父の太田道真公と道灌公の養子・太田資家公(岩槻城主)が、道灌公の遺髪や分骨をもらい受け、越生町の龍穏寺と岩槻の芳林寺に埋葬したとの言い伝えもある。 資正公の正室であり、岩槻城主・太田氏資公の母公が生前に禅門に帰依して芳林妙春尼と号していたが、永禄10年(1567年)3月8日逝去するにおよび陽光院殿芳林妙春大姉と諡し、開基となしてその法号に因み、寺号を芳林寺と改めたのであった。 また氏資公は北条氏康の娘(長称院)を妻に迎え、小田原北条氏に属していたが、永禄10年8月23日里見氏との上総三船山の合戦で、殿軍を努め討死したので、その亡骸を当寺に埋葬し太崇院殿昌安道也大居士と諡した。 天正18年(1590年)徳川家康公関東入国に伴い、高力清長公が岩槻城主に封ぜられるや、当寺の荒廃しているのを歎き大修理を加え復興した。 そして、嫡男・高力正長公が慶長4年(1599年)3月22日卒したとき当寺に葬り、快林院殿全室道機大禅定門と諡したのである。この間いくばくもなくして火災に遭い堂宇悉く灰爐に帰したが、高力忠房公がこれを復興造営した。 それ以降年月を歴て、またもや文化8年(1811年)2月18日消失し、現在の本堂は天保12年(1841年)5月再建したものといわれている。 なお明治4年(1871年)県庁が一時岩槻に置かれた際、一部仮庁舎として使用されていたとも伝えられている。 |
