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慶長5年(1600年)の関ケ原合戦で西軍に与し敗軍の将となった信州上田城主真田昌幸・幸村(信繁)親子は、戦後高野山に流され、しばらくして麓の九度山(和歌山県九度山町)に移った。父昌幸は慶長16年6月4日に九度山で亡くなるが、幸村は、大坂冬の陣が勃発するや否や、慶長19年10月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城した。 幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築した。これが「真田丸」で、幸村は慶長19年12月4日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉にとった。 「真田丸」の場所については、元禄年間(1688年〜1704年)に作製された大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得たのである。 |