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元治元年(1864年)9月、徳川幕府は長州征伐のいくさをおこした。 そのとき長州の藩論は二つに分かれ、井上馨は、温和な解決を主張した。 そのため、御前会議の帰りみち山口城下袖解(そでとけ)橋をすぎ一本松にさしかかったとき反対派におそわれた。しかし危くも一命をとりとめた。 翌慶応元年(1865年)馨は別府にのがれ、旅館若彦(のちの若松屋)に身をかくした。 若彦の主人彦七は事情を察し、手厚い保護を加えたためしばらくして全快した。 かれは、その後政界に身を投じ、47年後の明治44年(1911年)5月末、別府の若松屋旧屋を訪ね、謝恩の意をこめて「千辛万苦之場」と扁額を書き、若松屋(松尾家)に贈った。 この建物は昭和57年12月18日移転復元されたものである。
別府市教育委員会 |

