昔の温泉栃 木

畑下(はたおり)温泉「清琴楼」
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 土曜日は天気が良かったが、所用で出掛けられなかった。日曜日の天気は良くないが、それでも出掛けることにした。天気が良くなければ、遠出は出来ない。東北自動車道で先週行きそびれた塩原の温泉へ。

雨がぱらつき始めた。

西那須野塩原ICから国道400県号で塩原温泉郷へ。

雨は雪に変わるが、積もるような雪ではない。

いつものように塩原町役場に車を停める。


 この前、古町温泉「会津屋」で断られてしまったので、改めて「会津屋」行く。今日も掃除で入れないと言われてしまった。どうやら日曜日の日帰り入浴は出来ないようだ。

 門前温泉に戻り、「ホテルニュー塩原」のB&H館に行く。まだお湯が溜まっていないと、また断られてしまった。

 「手打ちそば遊蕎」でお蕎麦を食べながら、作戦を立て直す。雑誌を見ると、畑下温泉「清琴楼」の日帰り入浴は250円と書いてあった。本当に250円かどうか分からないが、行ってみることにする。

 要予約と書いてあったが、電話がない。公衆電話を探して歩いているうちに「清琴楼」に着いてしまった。

「清琴楼」別館


 「清琴楼」は明治元年創業の宿。尾崎紅葉は明治32年(1899年)6月10日頃から約1ヶ月程度「清琴楼」に滞在して『金色夜叉』を執筆。

 大正2年(1913年)6月15日、東洋大学の創設者井上円了は塩原温泉を訪れて福渡温泉「桝屋旅館」に泊まり、翌16日早朝散策して、「これより更に数丁を隔てて畑下温泉あり。清琴楼の外に四戸の客舎を有す。」と書いている。

 昭和6年(1931年)、佐藤健次郎は栃木県塩谷郡塩原町(現:那須塩原市)に生まれる。

脇に尾崎紅葉(1867〜1903)の胸像がある。

尾崎紅葉の胸像


昭和41年(1966年)、佐藤健次郎制作。

窓ガラスに後ろ姿が映っている。

平成27年(2015年)5月14日、佐藤健次郎死去。享年84歳。

 昭和11年(1936年)7月、荻原井泉水は「清琴楼」に滞在。

 現在、本館は客室としては使用していないので、別館にフロント(と言えるかどうか、分からない)がある。

 「お風呂に入れますか?」と聞くと、日帰り入浴は露天風呂だけで、500円だと言う。

 お姉さんが「お風呂に手を入れて、入れるようだったら、後で500円を払ってくれ。」と言って、案内してくれた。

「清琴楼」本館


 露天風呂は「清琴楼」の本館から入る。本館には「紅葉の間」あり、見学出来るようだ。但し、有料らしい。

橋を渡ると、箒川の中洲がある。

露天風呂へ行く矢印は左を指していた。

右手に露天風呂らしきものがある。


きれいに澄んでいたが、水だった。

左に行くと、そこに「清琴楼」の露天風呂があった。

「清琴楼」の露天風呂


 露天風呂は1つしか入れないのだから、混浴なのだろう。もっとも、入れるかどうかわからないのだから、誰もいない。

 成分分析表もないので確かなことは分からないが、畑下温泉なので泉質はナトリウム・カルシウム−塩化物高温泉(低張性中性高温泉)なのだろう。

眼下には箒川が流れている。

箒川の清流


お湯はそのまま箒川に流れるようだ。掛け流しなのだろう。

雪が降りかかる。

洗い場もないので、間が持たない。

500円分は入れなかったが、500円を払った。

元湯温泉へ。

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