国指定名勝 |
衆楽園は、津山藩主森長継が明暦年間(1655〜1658)京都から小堀遠州流の作庭師を招いて築いた大名庭園です。当時の面積は23,504坪と現在の3倍近い広大なもので、御殿が造られ城主の清遊の場となっていました。津山藩では防備の上から場内に他藩の使者を入れず、ここで応対したので、「御対面所」と呼ばれました。 その後、森氏に代わって入封した松平氏に引き継がれましたが、明治3年正月、時の藩主松平慶倫が「衆楽園」と命名し公園として一般に公開しました。明治4年の廃藩後、多くの建物が取りこわされ規模も縮小して、一時「偕楽園」また「津山公園」と改称されましたが、幸いにして園池の主要部分は残り、大正14年再び「衆楽園」と改称し現在に至っています。 この庭園は京都の仙洞御所を模したもので、明暦の創園当時から伝わる建物としては余芳閣が残っています。南北に長い池に大小四つの島を配し周囲の中国山地を借景とした構成は近世池泉回遊式庭園の典型であり、江戸時代初期の大名庭園の面影をよく残しています。 |
美作にある第二日(だいにじつ)菱浮きてさざ波うごく池とむかへる
「山のしづく」 |
絲櫻 水にも 地にも 枝を垂れ |
誓子(明治34−平6)は津山出身の俳人西東三鬼らに推されて俳誌「天狼」を主宰する現代俳壇の重鎮。この句は昭和54年春、津山文化センター前の三鬼の花冷え句碑建立を祝って衆楽園を吟行して詠んだ。 |