2016年長 崎

島原城〜北村西望〜
indexにもどる

島原市城内に島原城がある。

龍馬の長崎初上陸の地は島原だった

〜龍馬が歩いた島原街道〜

坂本龍馬が勝海舟に同行し、初めて長崎を訪れたのは1864年。

長崎での龍馬の活躍は広く知られているところだが、その第一歩が島原の地であった。

龍馬たちが通った島原街道界隈には、島原城や武家屋敷街があります。

お城を仰ぎ見ながら桜の咲く山道を長崎へ急いだことでしょう。

帰路も、次第に近づくお城を見、雲仙岳と有明海を左右に眺め、その光景に目を見張ったことでしょう。

2月
21日
 新町出立、馬にて高橋宿に到る。
 同所より乗船。此夜、島原へ渡る。
 此地、小川あり。小船にて川口へ下る。半里。

21日
 払暁、島原へ着船。
 城下本陣へ休息。直ちに出立。

4月
4日
 長崎出立。矢上

5日
 島原着。

6日
 渡海、熊本着、肥後侯より使者あり。

『海舟日記』元治元年(1864年)

島原城


日本100名城No.91である。

島原城由来

 この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところです。この瑞祥の地に、五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築きました。元和4年(1618年)着工、4〜7年の歳月を経て完成。同時に島原城下町も整備したといいます。

 波風をもたない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を三層櫓で固め、外郭は4キロにわたり矢狭間をもつ練塀で取り囲みました。

 4万石の大名には過分な城です。ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。

 以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と4氏19代の居城として輝きました。その間、寛永14年(1637年)島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、寛政4年(1792年)島原大変時には打続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。

 明治維新で廃城になり、払下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取組みが長年続きました。昭和39年(1964年)天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取戻しつつあります。

昭和30年(1955年)8月8日、長崎平和祈念像除幕式。

昭和42年(1967年)10月、旭川の常磐公園に永山武四郎像建立。

昭和47年(1972年)、西望記念館開館。

北村西望


西望記念館が城頭に輝き又肖像まで企画して頂た事は此上も無い感激である。然し西望芸術はまだまだ之からだ。健康と共に油断大敵

「たゆまざる歩みおそろしかたつぶり」

昭和47年11月18日   米寿西望塑人

 郷土島原が生んだ日本彫塑界の巨匠・北村西望先生の米寿を祝し、不朽の業績を顕彰するため、ここに西望記念館を建てる。明治、大正、昭和に亘って創作された一つ一つは、常に生き生きとした感動をよびおこし、人びとの魂を洗い清めて、永遠の輝きと香気を漂わせている。まさに、日本が世界に誇る至宝である。雄こんにして神仏の慈悲をたたえた西望芸術の源流は、おおらかで麗わしい、ふるさとの風土と歴史の中から、醸成されたとみることができる。私たち、島原を郷土にもつものの、誇りと喜びの形象として、先生のご厚意を仰ぎ、在京南高人会の熱意と多くの人たちの共感によって、この西望記念館を実現させた。世界に類の無い彫刻芸術の殿堂である。

 ここを訪れる人は、その崇高な気品と真髄にふれ、清らかな思念にうたれるであろう。そしてまた、島原に生れ育つ人が、この偉大な芸術家の精神と業績を炬火として、研賛の心を燃やしつづけて欲しいと、切望してやまない。

天草四郎像


昭和48年(1973年)、原城本丸に天草四郎像設置。

昭和49年(1974年)10月、熊谷駅前に熊谷次郎直実像設置。

昭和62年(1987年)3月4日、102歳で没。

若き日の織田信長像


南高町長会殿寄贈

昭和63年(1988年)、岐阜市制100周年に寄贈。

 明治43年(1910年)4月24日、河東碧梧桐は島原の城下を訪れた。

 背(うし)ろに眉山―また前山―を負い、前に百年余前の地震の名残という群島を控えた、島原の城下は風致に富んでおる。眉山は温泉岳よりも遙かに低いけれども、山の面に印した谷々は山の頂から麓まで、鑿で彫りつけたような鋭い皺を劃しておる。群島の数は松島に劣るであろうけれども、海は深く汐は澄んでおる。そうして島々の松は多く蓊鬱(おううつ)として滴る翠(みどり)を湛えておる。


   島原城跡

一揆潰れ思ふ汐干の山多し


島原城を裏から見上げる。


 昭和10年(1935年)5月、北原白秋は島原を訪れている。

   嶋 原

眉山は裾山櫨(はじ)の若萌に潮の南の風吹きあてぬ

嶋原城を空現(うつ)しけしここに天草四郎母を思慕しき

 昭和51年(1976年)5月24日、水原秋桜子は島原城で切支丹資料展を見ている。

 切支丹資料展の閉館時刻は迫っていたが間に合った。天守閣の入口の石段を登り、そのまま一気にもう一つ階段を急ぎ足で登ったから、陳列品を目前にしながら息苦しくなっていまった。こういうところが我ながらいけないのだと思う。しばらく息をしずめてから見て回った。太い竹を斜めに削いだ空間を厨子として納戸佛を隠してあるもの、金属の風鈴に「恵須」という字を彫って「イエス」を暗示したもの、マリアを蓮台に載せて佛像とまごうようにしたものなどみな興味があって、俳句の意慾をさそう。長崎では納戸神といっているものが、ここでは納戸佛になっているのもおもしろい。

「長崎と島原」

2016年長 崎〜に戻る