新年の旅日記

『おくのほそ道』俳文碑〜「芭蕉船出の地」〜

 塩竈市西町の県道3号塩釜吉岡線沿い(鹽竈海道)に『おくのほそ道』俳文碑があった。


 それより野田の玉川沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て、末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が島もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其世目盲法師の琵琶をならして奥浄るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。

【解 説】

 『おくのほそ道』は、俳人松尾芭蕉(1644〜1694)が門弟曾良を伴って、元禄2年(1689年)3月27日(陽暦5月16日)に江戸を立ち、東北・北陸の名所旧跡を巡り、同年9月、岐阜大垣に至るまでの約150日、約600里(2400km)に及ぶ旅の紀行本であり、日本古典文学の代表的作品となっている。

 芭蕉は旅立つにあたり、伊賀上野の俳友に「松島の朧月」と「鹽竈の桜」を楽しみしているという手紙を残しているが、塩竈を訪れたのは同年5月8日(陽暦6月24日、御釜神社、野田の玉川などを巡って裏坂の治兵衛の宿に泊まり、翌日、鹽竈神社を参拝し、船で籬島などを眺めながら松島へ向かうが、残念ながら鹽竈桜をみることはかなわなかった。

塩竈市宮町には「芭蕉船出の地」があった。


 元禄2年5月9日(陽暦6月25日)、芭蕉は「辰ノ尅、鹽竈明神ヲ拝。帰テ出船。……」(曽良旅日記)、午前8時頃塩竈神社を参拝した後、この辺りより松島に向け出船した。市街地の拡張に伴い湾内は埋め立てられたが、芭蕉が訪れた頃、この辺り海岸線だった。

 塩竈市西町の県道3号塩釜吉岡線南側には『東北遊日記』の文学碑があった。


 十八日  朝微雨 巳にして晴る 塩竈の別当鈴木隼人を訪ふ 隼人 吾が二人を導きて法蓮寺に登る 寺の地は高敞にして松島を望むべし 寺に藩侯臨む所の室あり 塩竈明神の祠を拝す 是れを陸奥一の宮と為す 古鐘あり 文を按ずるに 明応六年に鋳る所 大旦那留守藤原朝臣藤王丸の文あり 留守氏は登米の大夫伊達式部の祖なり 祠に神馬あり 藩侯世ごとに一匹を献ず 九月十七日の祭事 侯 国に在るときは則ち来り詣づ 仙台の封地は最も売色を禁ず 而るに塩竈 石巻は船舶の輻湊する所なるを以て禁ぜず 未後 塩竈を発して市川に至り 多賀城の碑を観る

【解 説】は、読めなかった。

嘉永5年(1852年)3月18日、吉田松陰は塩竈に立ち寄っている。