むかし、左のおほいまうちぎみいまそかりけり。賀茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。かんなづきのつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王たちおはしまさせて、夜ひと夜、酒のみし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。
そこにありけるかたゐおきな、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。
塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここによらなむ
となむよみけるは、陸奥の国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々多かりけり。わがみかど六十余国の中に、塩竈という所に似たる所なかりけり。さればなむ、かのおきな、さらにここをめでて、塩釜にいつか来にけむとよめりける。
『伊勢物語』(第八十一段) |
寛文2年(1661年)、西山宗因は仙台から塩竈を訪れた。
岩城をたちて六日にや、まだ朝霧のほどに、かの浦につきぬ。聞くならく、六十よ国の中々に詞を絶たり。河原のおとゞのむかしおもひやられて、かの朝臣の爰によらなんとながめしあまの小舟に乗て、霧のまがきのしまがへ(くカ)れなくさしめぐる。
浦山はいづくはあれどあま小舟かゝる所の秋の夕ぐれ
塩がまや色ある月のうす煙
島かくすそれしも霧の籬哉
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カーナビの指示に従って、鹽竈神社(HP)へ。
鹽竈神社は表坂(男坂)という202段の石段を登るのだが、車は石段を登れない。急な坂道を登って駐車場に車を停める。
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鹽竈神社

元禄2年(1689年)5月9日(新暦6月25日)早朝、芭蕉は石段を登って鹽竈神社に詣でた。
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文治の燈籠

文治3年(1187年)7月10日、奥州藤原三代秀衡の三男泉三郎忠衡により寄進されたもの。
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元禄9年(1696年)、天野桃隣は塩釜を訪れ、句を奉納している。
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是ヨリ塩竈への道筋に浮嶋・野田玉川・紅葉の橋、いづれも道続なり。緒絶橋は六社の御前ニ有。塩竈六社御神一社に篭、宮作輝斗也。奥州一の大社さもあるべし。神前に鉄燈籠、形は林塔のごとく也。扉に文治三年和泉三郎寄進と有。右本社、主護より造営ありて、石搗の半也。
○法楽 祢宜呼にゆけば日の入夏神楽
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享保元年(1716年)5月、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚。鹽竈神社を訪れている。
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六社明神に詣す。宮裏石壇の結構美を尽せり。泉ノ三郎寄進の鉄灯籠あり。又鉄の塩やき竈四ツあり。そのかみ此地にて塩を焼せ給ふといふ。今は塩浜しほやきなし。この竈の水を年々一度かゆれとも古代の水一杓つゝ残るゆへに万古不易の水とうとむへし。
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塩かまは揚名の介風かほる
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藻のひかり山もやとはす千賀の月
| 北
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元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、鹽竈神社を訪れた。
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明神は當國第一の社なり。木立古り神さび。石の階百重に疊み上げ。樓門いよやかに構へ。廻廊緩く回り。社壇目出たく輝き。切れる石の中徑は。糸して引くが如く。細かなる敷る石は。洗へる大豆に似たり。石唐銅(からかね)の燈籠數も知らず。中にも和泉三郎寄進の燈籠は。形輪塔の如く珍らし。
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元文3年(1738年)4月、田中千梅は鹽竈神社に参詣している。
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猶たとり行ほと塩竃の浦に着日ハ午なりまつ大明神に詣す正一位一ノ宮塩竃大明神乃額ハ佐玄龍筆
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寛延4年(1751年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で塩竈で句を詠んでいる。
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塩 竈
雄島へも鴛の通ひ路千賀の浦
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宝暦5年(1755年)5月10日、南嶺庵梅至は鹽竈神社で「文治の燈籠」を見ている。
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鹽竈明神を拝し和泉三郎の燈籠有宮立古く石壇高聳て斯る邊土に稀代なる粧ひ神器の塩釜四つ各水いろ等しからなはなし
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五月雨や釜に湛て四つの錆
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宝暦13年(1763年)4月、蝶夢は松島遊覧の途上、塩竈を訪れている。
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塩竈のやしろは結構つくせり。泉の三郎の奉納の燈籠に「文治三年」の文字ありありと、御釜の古雅なる、「禹の九鼎」とも伝べし。
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明和元年(1764年)、内山逸峰は鹽竈神社に参詣している。
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明る日はやく起出て、先塩がまの御社にまうでゝ見奉れば、おもひしよりはを(お)ごそかにして、宮居は三社ぞならび給ひける也。所のものゝいひ伝ふるは、此御神は、日の本にしてしほをやく事をはじめてをしへ給ひし御神なるよしをかたる。塩をやき給ひしかま也とて朽せず今に残りて有ける也。塩竈の御社にて、
やきそめしめぐみかしこし塩がまの残すけぶりや世々のにぎはひ
昔此塩釜の浦を夢にきたりて見し事を思ひ出て、
たどりきて遠きをしるや昔わが通ひし夢はちかのしほがま
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明和6年(1769年)4月、蝶羅は嵐亭と共に鹽竈に泊った。
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塩竈夜泊
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しほがまや蚊やりも千賀のうら伝ひ
| 嵐亭
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| 塩釜
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舟路わすれず青あらし敷
| 魚行
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しだり尾の熨斗とこたへて娵見せて
| 蝶羅
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牽頭もつほど客ハ静まる
| 東明
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一間には數珠の露ちる朝の月
| 野月
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升掻いはふ豊年の秋
| 筆
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塩がまの桜や千賀のうらわかば
| 蝶羅
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明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で鹽竈神社に句を奉納している。
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忝じけないづくはあれど沖鱠 | | 暁台
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むすぶ潮に清き藻の花 | | 雨石
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安永2年(1773年)、加舎白雄は鹽竈神社を訪れた。
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しほがまの社頭にまいりつゝ、塩土老翁と現じたまひし神代のむかしをたうとみて、
秋久にはこぶ瀬ごゝろ
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「塩土老翁」(しおつちのおじ)は鹽竈神社の主祭神。
寛政3年(1791年)5月24日、鶴田卓池は「塩竈明神」を訪れている。
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二り塩竈 塩竈明神 社人廿八家アリ
神前に南蛮鉄ノ燈籠アリ 文治三年和泉三郎寄進也
別当法連満寺坊十弐本アリ
町内ニ神ノ汐竈四ツ有 昔ハ七ツ有シト云
町家ノ裏ニ小池アリ 是ニ牛石ト云モノアリ
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享和2年(1802年)、常世田長翠は酒田に移住するる道筋の途中で乙二と共に鹽竈神社に参詣した。
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しほがま社頭
六月の水拝みけり釜のろく
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嘉永5年(1852年)3月18日、吉田松陰は法蓮寺に登り、塩竃神社を参拝した。
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十八日 朝微雨 已にして晴る。鹽竈の當別鈴木隼人を訪ふ。隼人吾れら二人を導きて法蓮寺に登る。地高敞にして松島を望むべし。寺に藩侯望む所の室あり。鹽竈明神の祠を拝す、是を陸奥一の宮と爲す。古鐘あり、文を按ずるに、明應六年に鑄る所、大旦那留守藤原朝臣藤王丸の文あり。留守氏は登米の大夫伊達式部の祖なり。
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鹽竈神社は陸奥国一宮である。
右宮左宮

左が右宮、右が左宮。
右宮に経津主神(ふつぬしのかみ)、左宮に武甕槌神(たけみかづちのかみ)が祀られている。
経津主神は茨城県の鹿島神宮の主祭神、武甕槌神は千葉県の香取神宮の主祭神。
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明治26年(1893年)7月29日、子規も石段を登って鹽竈神社に詣でた。
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汽車鹽竈に達す。取りあへず鹽竈神社に詣づ。數百級の石階幾千株の老杉足もとひやひやとして已に此世ならぬ心地す。神前に跪き拜し畢りて和泉三郎寄進の鐡燈籠を見る。大半は當時の物なりとぞ。鐡全く錆びて側の大木と共に七百年の昔ありありと眼に集まりたり。
炎天や木の影ひえる石だゝみ
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明治39年(1906年)11月14日、河東碧梧桐は塩釜神社に詣でた。
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塩釜に来て、牛石、お釜、塩釜の三神社に詣った。牛石神社は、塩釜の神が塩を焼いて下民に施された時の牛が化石したという由来である。お釜神社には塩を焼いたという大きな丸い釜が四つある。塩釜神社では東京を出て以来最古の宮居に詣ったと思うて神前にぬかずいた。
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昭和3年(1928年)7月24日、荻原井泉水は鹽竈神社で「文治の燈籠」を見ている。
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芭蕉が感じて書いている和泉三郎寄進の南蛮鉄の灯籠は、神前向って右手に、垣をめぐらし、台石の上に安置してある。灯入れの扉は右と左に月と日とを象り、「奉寄進」「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」と右左に記してあるのを、私はマッチを灯して読んだ。
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昭和6年(1931年)11月、斎藤茂吉は鹽竈神社に参詣している。
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