私の旅日記2011年

七北田川〜塩竈街道〜
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JR東北本線岩切駅を出る。


明治20年(1887年)12月15日、岩切駅開業。

 陸奥国分寺の岩を切り出した地ということが岩切の地名の由来となったそうだ。

 明治26年(1893年)7月30日、子規は駅のホームで汽車を待ち句を詠んでいる。

蒙古の碑は得見ずして 岩切停車場に汽車を待つ。

   蓮の花さくやさびしき停車場

此夜は仙臺の旅宿に寐ぬ。


七北田川の土手を歩く。


今市橋に「塩竈街道」の碑があった。


岩切若宮で石巻街道と分かれる街道である。多賀城市南宮と市川の間で砂押川を渡り、多賀城政庁跡の北を通り、塩竈市大日向・赤坂を経て塩竈神社に至る。赤坂橋を渡ると元禄頃の遺構とされる越後屋があり、塩竈詣の客に土産品を売っていた。母屋は藩公の休息所とされたが、腐朽が甚だしく昭和52年に解体された。

今 市

昔は冠屋と呼ばれた。歌名所の轟の橋(緒絶の橋)があり、近くには奥の細道も通っている。留守家旧臣の兵藤大隅が岩切村端郷の原野を切り開き、町場を建設した所で、寛永2年(1625年)には町場住民が一括して弓組足軽に取り立てられ、兵藤氏が代々組頭を勤めた。この今市足軽と福田・諏訪の足軽を三町足軽ともよんだ。

小学館 完訳日本の古典12 『枕草子』(65段)に「轟の橋」が出ている。

 橋は あさむつの橋。長柄の橋。あまびこの橋。浜名の橋。ひとつ橋。佐野の船橋。うたしめの橋。轟の橋。を川の橋。かけ橋。勢多の橋木曾路の橋。堀江の橋。かささぎの橋。ゆきあひの橋。小野の浮橋。山菅の橋。名を聞きたるをかし。うたたねの橋。

 文明19年(1487年)、道興准后は「とゞろきの橋を過ぎ侍る」と記している。

とゞろきの橋を過ぎ侍るとて、

   かち人も駒もなづめる程なれやふみもさだめぬ轟の橋


 大淀三千風は『松島眺望集』で「塩釜に近し。此辺、浮島、野中の清水、沖の石奥の細道、轟の橋などいふ処あり。」と書いている。

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は『陸奥鵆』の旅で「壺の碑」に向かう途中、「此所より又本の道へ戻り、土橋より一丁行、左の方に小橋三つ有、中を緒絶橋と云。所の者は轟の橋と答ゆ。」と書いている。

享保元年(1716年)、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚。野田の玉川を訪れている。

   緒たへの橋

網影の緒たへに飛や鰭の露


 明和元年(1764年)、内山逸峰は緒絶の橋を渡って歌を詠んでいる。

 此七曲りをくだれば、長さ七八間斗成橋あり。緒絶の橋といふ也。橋板を四五寸程宛、間をあけて懸置たり。渡り見るにいと危く覚ゆる也。

   危う(ふ)さを忘れてわたるみちのくのをだへ(え)のはしと名にはたつとも


 寛延4年(1751年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で松島から「とたへの橋」を経て気仙沼に向かっている。

   とたへの橋

馬と人もとたへのはしの冬日陰

 『奥細道菅菰抄』に「緒絶の橋は、又とだえのはし共、丸木橋とも云。続後撰、白玉のおだえの橋の名もつらしくだけてて落る袖のなみたに、定家、と詠れし名所なり。」とある。

 天明6年(1786年)8月18日、菅江真澄は「戸絶のはし」のことを書いている。

 冠川の神のおましのこなたに、青麻(アヲサ)ごんげんとて、ひたち房海尊を祭る社あるに行みちにさゝやかなる橋二つありて三つといはんを

   あやうしと見ゆるとたへの丸木はしまつほとかゝるもの思ふらん

と聞へしを、今は戸絶のはしといはで、とゝろきのみおしへたり、


 一般には大崎市古川の三日町と七日町の間に架かる「緒絶橋」が、「緒絶橋舊跡」とされる。

東光寺がある。

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