1300以上もむかし、大化2年(646年)に初めて架けられたと伝えられる、わが国最古の級の橋です。
その長い歴史のなかで、洪水や地震などの被害はもちろん、戦乱に巻き込まれことも数えきれません。しかし、橋はそのつど架けなおされてきました。ここ宇治が、交通上重要な場所であり続けたことのあらわれでしょう。
またこの橋は、古今和歌集や源氏物語をはじめとする文学作品、絵画や工芸品といった美術作品に描かれるなど、古くから景勝の地で宇治の象徴として親しまれてきました。
現在の橋は、長さ155.4m、幅25m。平成8年(1996年)3月に掛け替えられたもので、木製の高欄に疑宝珠があしらわれるなど、この橋の豊かな歴史と文化にふさわしいデザインがほどこされました。これからも、宇治の名所のひとつとして優雅な姿を川面にうつしていくことでしょう。
宇治市宇治橋西詰に夢浮橋ひろばがある。
夢浮橋之古跡
]源氏物語宇治十帖(十)
夢の浮橋
薫の君は、小野の里にいるのが、浮橋であることを聞き、涙にくれる。そして僧都にそこへの案内を頼んだ。僧都は、今は出家の身である浮橋の立場を思い、佛罰を恐れて受け入れなかったが、薫君が道心厚い人柄であることを思い、浮舟に消息を書いた。
薫君は浮舟の弟の小君に、自分の文も添えて持って行かせた。
浮舟は、なつかしい弟の姿を覗き見て、肉親の情をかきたてられ母を思うが、心強く、会おうともせず、薫君の文も受け取らなかった。
小君は姉の非情を恨みながらしかたなく京へ帰っていった。薫君はかっての自分と同じように、誰かが浮舟をあそこへかくまっているのではないかとも、疑うのだったとか。
法(のり)の師とたづぬる道をしるべにして
思わぬ山に踏み惑うかな
(財)宇治市文化財愛護協会 |
紫式部像
紫式部(978〜1016?)
紫式部は『源氏物語』54帖の作者として知られる女流文学者。ここ宇治川の畔一帯に華やかな貴族文化の花が開いた王朝時代に登場した才女とは知られていても、その生涯には謎が多く、生・没年さえ正確にはわかっていない。999年頃藤原宣孝と結ばれたが、宣孝の死後は寡婦生活の日を送り、『源氏物語』の執筆はこの頃から始められたらしい。
やがて今をときめく左大臣藤原道長から、一条天皇の中宮になった娘の彰子の女房として仕えるようにと召し出され、宮仕えの身となる。
『源氏物語』が当時の宮廷社会の実情をリアルに描写し、因果応報の人生観を有する人間性を追求した長編にまとめられているのは、紫式部自身の境遇によるものであろうと思われる。
紫式部には、女房として宮仕えをしていたころの生活を綴った『紫式部日記』(1008秋〜1010春)や、歌人としての非凡な才能が知られる『紫式部集』があり、当時の公家のようすを伝える貴重な遺作となっている。
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