槇村浩(こう)は、父才松、母丑恵の長男として明治45年(1912年)6月1日、高知市甘代町八十九番屋敷 (現:はりまや町3丁目1番17号から22号) で生まれる。幼少から神童として知られ、高知市第六尋常小学校4年修了、5・6年飛び級で土佐中学校、県立中学海南学校、関西中学校(岡山市)で学ぶ。 |
大正12年(1923年)、私立土佐中学校2学年飛び級で本科1年に入学。 昭和3年(1928年)、高知県立海南中学校に転校。 |
槇村浩は、昭和6年(1931年)、日本プロレタリア作家同盟高知支部結成に参加。翌年、反戦叙事詩「生ける銃架」、独立を目指す朝鮮人民との連帯をうたった長編詩「間島パルチザンの歌」などを発表。 一方、旧陸軍歩兵第44連隊の上海出兵反対運動を展開。治安維持法違反で検挙され、3年の実刑判決を受けるも非転向で出獄。再び検挙されるが特高警察による拷問がもとで、昭和13年(1938年)9月3日病死する。享年26歳。 戦後、日本を代表する反戦革命のプロレタリア詩人として高く評価されている。 代表作である「間島パルチザンの歌」の詩碑が高知市城西公園に建つ。墓碑は、高知市平和町にあり、母丑恵とともに眠る。 |
2019年度高知新聞厚生文化事業団助成 |