市指定史跡 |
この地は、矢倉沢往還や藤沢道、八王子街道が相模川を渡る渡船場で、常時5艘の舟が備えられ、旅人などに利用されていました。 江戸時代に刊行された『新編相模国風土寄稿』の記述によると、冬の渇水期には土橋が設けられていました。 この渡船場の厚木側の権利は、厚木村と溝呂木家が持っていました。溝呂木家の権利は、徳川家康から与えられたものと伝えられています。 天保2年(1831年)9月、矢倉沢往還を通って厚木を訪れた渡辺崋山は、「厚木六勝」図を残していますが、その一つ「仮屋喚渡」(かおくのかんと)は、この場所を描いたものです。 明治41年(1908年)、相模橋の開通によって、この渡船場は廃止され、その役目を終えました。
厚木市教育委員会 |
渡邊崋山は天保2年9月22日から數日當地に滞留し、その繁盛に驚き厚木の盛んなること都にことならず、家のつくりさまは江戸にかわれども女男の風俗かわる事なしと「遊相日記」にしるしている。崋山39歳のときである。このおり彼は邑内の風雅を愛する人たちを集めて歡談し、需めに應じて「厚木六勝」を描いた。雨降晴雪・假屋喚渡・相河清流・菅廟驟雨・熊林曉鴉・桐堤賞月がそれである。 崋山來遊から130年、ことの忘れ去られるを慮り、大略を記してのちに傳える。 昭和36年春 |