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1865年、新しい国造りのために若い俊才を集めて、密かにイギリスに留学させようという、英邁な判断が薩摩藩で下されました。時はまだ幕末、鎖国の禁を破っての密航でした。しかし、黒船来航以来、にわかに日本の封建体制の基盤が揺らぎ始め、薩摩は、島津齊彬藩主の頃から海外列強の存在を意識し始め、新しい国家形成に向けて胎動し始めていました。 |
村橋直衛 23歳

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ロンドン大学では陸軍学術を学ぶ。留学の翌年2月帰国、後戊辰戦争函館役に出征、北海道の洋式農業の技術導入に力を尽くした。 |
町田久成 (当時28歳)

(薩摩藩英国留学生のひとり)
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町田久成は英国留学生のリーダーとして指導監督する立場でした。鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」では最上段に立ち、まっすぐに差出された左手は、久成に力強い決断力を表しているように見えます。共に留学した弟二人に対する強い責任感も感じていたに違いありません。 |
最上段

鮫島尚信 21歳

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文学を学ぶ。森、磯永と共に慶応3年(1867年)渡米。明治元年6月帰国、わが国最初の在外公館の初代弁務士(日本を代表する外交官)、主にフランスに駐在し特命全権公使をつとめる。 |
名越時成 21歳

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陸軍学術を学ぶ。留学の翌年8月下旬帰国して戊辰戦争に従軍したのち、かつて父の名越左源太が流刑にされた奄美大島に暮らした。 |
五代友厚 31歳

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留学生派遣を提案した中心人物。イギリス国内やヨーロッパ大陸を視察、紡績機械の買いつけにあたる。留学の翌年3月帰国、明治維新後日本経済近代化に指導的な役割を果たした。初代大阪商法会議所会頭となる。 |
松木弘安 34歳

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幕府の遣欧使節の一員として2年間ロンドンに滞在した経験を生かし、留学生の教育にあたる。かたわら、また、イギリス政府を相手に外交活動を行い、イギリスの対日政策を大きく変えさせ、幕末の倒幕運動に大きな影響を与えた。のち寺島姓となる。 |
市来和彦 24歳

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海軍測量術を学ぶ。慶応3年(1867年)7月渡米、アナポリス海軍兵学校を卒業,明治6年(1873年)11月帰国。海軍兵学校長として近代日本海軍の人材育成に尽くした。 |
森 有礼 19歳

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海軍測量術を学ぶ。慶応3年(1867年)7月渡米、翌年の明治元年(1868年)6月帰国。のちわが国最初の駐米大使となる。駐英公使を経たのち、教育制度の確立と近代化に大きな足跡を残す。初代文部大臣。 |
町田実積 19歳

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海軍測量術を学ぶ。町田三兄弟の次弟。留学の翌年8月帰国、藩主島津茂久の命により小松帯刀の養子となり家督を一旦相続するが、のち庶子に譲って町田家に戻った。 |
田中盛明 23歳

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医学を学ぶ。留学の翌年1月渡仏,慶応3年(1867年)帰国。兵庫県生野鉱山局長、生野鉱山に洋式鉱山技術を取り入れるなど、日本鉱山業界の発展に尽くした。 |
磯永彦助 13歳

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幼少のため勉強の科目を決めなかった。ただ一人、スコットランドの古都アバティーンへ移る。慶応3年(1867年)7月渡米、以来生涯をアメリカで送り、広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造につとめ、ぶどう王と呼ばれた。 |
新納久脩 34歳

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留学生の団長格。イギリス国内やヨーロッパ大陸を視察し、紡績機械などの買いつけにあたる。留学の翌年3月帰国のち家老となる。 |
最上段

町田清次郎 (当時13歳)

(薩摩藩英国留学生のひとり)
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本名は実行(1851〜没年不詳)。1865年、兄久成を団長とする薩摩藩の留学生の一員として鼎と同じく13歳でイギリスに派遣され、造船技術について学びました。フランス留学を希望しましたが兄(久成)の反対により断念、1866年に帰国しました。後に養子に行ったため財部実行となり、50年後に「財部実行回顧談」を残しています。 |
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