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我に奇策あるに非ず 唯正直あるのみ |
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松方正義は天保6年〈1835年〉2月25日、父松方正恭・母袈裟子の四男として鹿児島城下下荒田村に生まれた。名ははじめ金次郎。正作、三之丞、助左衛門と改名、号は海東、孤山と称す。 10歳の時一家は破産。11歳で母を、13歳で父を失い、赤貧の中で東郷長左衛門に師事して日置流の弓術を学び、東郷實位について示現流の剣術を修業、奥義を究め文武に精励した。 嘉永3年(1850年)、御勘定所出物問合方勤務を拝命、のち大番頭座書役を7年間勤め、安政6年(1859年)にはその功によって藩主忠義より130両を拝領、この時これを開封せず父の借財返済にあて父母の霊を慰めた。 文久2年(1862年)島津久光の上洛と幕政改革を目的とした江戸への往復に随行、帰途に起こった生麦事件に際しては、久光の駕籠側にあって身をもって主君を護り、久光の信任を得て翌3年御小納戸役を拝命、一代新番場廻格に列し、集成館掛兼務を命ぜられた。また、長崎出張中に際会した戊辰戦争においては、土佐藩の佐々木高行とともに長崎奉行所を占拠し、市中の治安維持と各国領事らと会談して通商貿易の安定をはかった。 明治元年(1868年)日田県知事を拝命、地方間として維新政府に参加し、民政刷新と中央政府に対する多くの献言によって業績を認められた。また大久保利通の評価を得て同3年に民部大丞に転じ、7年には租税頭に昇進して地租改正事業の完成に尽力した。さ大久保利通没後は、その遺志を体して殖産興業政策を推進、生涯をかけて日本資本主義の育成、国家財政の確立を主導した。 明治14年(1881年)参議兼大蔵卿に就任して西南戦争後の経済政策に対処するとともに、翌15年には日本銀行を設立して紙幣を発行し、輸出を奨励して正貨の蓄積をはかった。 明治18年(1885年)伊藤内閣では蔵相として入閣、続く黒田・山県内閣に留任、明治24年(1891年)には第1次松方内閣を組閣して首相となり蔵相を兼務したため、蔵相在任は連続6年半にも及んだ。明治29年(1896年)第2次松方内閣を組閣して日清戦争後経営予算を実現するとともに、金本位制を確立させた。そしてその後も「我に奇策あるに非ず唯正直あるのみ」を信条に蔵相、内大臣、元老を歴任して国政に関与し、我が国の国力の充実と財政基礎の安定に大きな役割をはたした。またこの間、旧島津忠義・忠重の顧問を努め、島津家の家政改革にも尽力した。 従一位大勲位公爵 大正13年(1924年)7月2日没 享年90歳
島津修久記 |
