元禄2年(1689年)7月6日(新暦8月20日)、芭蕉は鉢崎(現柏崎市)から今町(直江津)を訪れた。美濃の商人宮部弥三郎の紹介状を携えて聴信寺を訪ねたが、忌中とのことで宿泊を断られてしまった。 |
翁行脚の昔、或法師を聞及たりと尋給ひけれハ、亭シハいてあハすして、桃青ならは物書てみせよとて硯出したり。曽良大に口惜かれと書て出セり。軈て主シ驚て出合頻に請しけれハ、暫し草鞋のまめを休め給へり。 |
やむなく寺をあとにするが、石井善次郎は芭蕉と知り、人を走らせて戻るよう説得した。再三断ったが、雨も降り出したので古川市左衛門方の宿に落ちつくことになる。 |
六日 雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ濱ヲ通テ、今町へ渡ス。聴信寺ヘ彌三状届。忌中ノ由ニテ強而不止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不帰。及再三、折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ各來ル。發句有。
『曽良随行日記』 |
直江津にて |
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文月や六日も常の夜には似ず | ばせを |
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露をのせたる桐の一葉 | 左栗 |
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朝霧に食(めし)たく烟立分て | 曽良 |
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蜑の小舟のはせ上る磯 | 眠鴎 |
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烏啼むかふに山を見せりけり | 此竹 |
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松の木間より続く供鑓 | 布嚢 |
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左栗は石塚喜右衛門。芭蕉が古川市左衛門方を宿としていることを聞き、訪ねてきたのである。芭蕉が俳号を与えたという。 |
左栗老人ハむかし我翁の行脚をとゝめて時に此二字を得たる人也、
『越の名残』(支考編) |
眠鴎 雪墻や鶴に乗たる人をみず 左栗 みゝかゆし何をかきかむ御代の春 布嚢 あかつきや風にまたゝくたか灯籠 |
七日 雨不レ止故、見合中ニ、聴信寺へ被レ招。再三辞ス。強招ニク(クニ)及暮。 昼、少之内、雨止。其夜、佐藤元仙へ招テ俳有テ、宿。夜中、風雨甚。
『曽良随行日記』 |