『奥の細道』 〜東北〜


〜尿前の関跡A〜

 小黒崎観光センターから国道47号(北羽前街道)を行き、鳴子温泉を過ぎて、尿前の関跡へ。


 去年の春、芭蕉像が雪囲いに覆われていたので、今日は芭蕉像の写真を撮ろうと思い、立ち寄った。

車を停めて坂を下りていくと、黄釣船草(きつりふねそう)が咲いていた。


芭蕉像


芭蕉像の左に『奥の細道』の文学碑がある。


 南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎みづの小嶋を過て、なるこの湯より、尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。 蚤虱馬の尿する枕もと

 一リ半、尿前。シトマヘヽ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有、断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。

 一リ半、中山。

『曽良随行日記』

 芭蕉は鳴子温泉の川向い、岩渕屋敷を通過し、十綱渡(とずなわたし)で荒雄川(あらおがわ)を渡り尿前の関に入ったそうだ。関守は遊佐勘解由宣春(ゆざかげいゆのぶはる)

芭蕉像の右の石碑には「芭蕉と鳴子」の説明が書いてあった。


 ここ、尿前の関で、通行手形(今のパスポート)を持っていなかった芭蕉たちは関守に怪しまれ、なかなか通過を許されなかったようです。ようやく関を越えてからも、山また山の難所続きで、満足な宿を得ることが出来なかったと記されています。尿前の関の前後は「道の奥」であり、「細道」であることを強く印象づける記述に満ちており、「おくのほそ道」のクライマックスになっていると言われています。

 芭蕉は通行手形を持っていなかったのだろうか。尿前の関から封人の家までは、いわゆる「中山越」であるが、「山また山の難所続き」とも思えない。「封人の家」は「よしなき山中」ではない。

尿前の関跡の前に芭蕉の句碑がある。


蚤虱馬の尿する枕もと

句碑の辺りに姥百合(うばゆり)が咲いていた。


姥百合の群生


赤倉温泉へ。

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