『奥の細道』東 北


〜末の松山〜

鹽竈神社から国道45号に戻り、多賀城市に向かう。


右折して多賀城駅に向い、左折すると末松山宝国寺がある。

末松山宝国寺


臨済宗妙心寺派の寺である。

末松山宝国寺の後ろに見えるのが、「末の松山」。

「末の松山」は『小倉百人一首』の歌で知られている。

契きなかた身に袖をしぼりつゝ末の松山浪越さじとは

『後拾遺和歌集』清原元輔

 清原元輔(908−990)は清原深養父(きよはらのふかやぶ)の孫で、清少納言の父。

清原深養父も『小倉百人一首』で知られている。

夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ

『古今和歌集』巻3(夏)

 文明19年(1487年)、道興准后は末の松山を見て歌を詠んでいる。

末の松山遥かにながめやりて、さてもはるばると来にけることなど思ひつゞけて、いつのまに春も末にならぬらむと思ひわびて、

   春ははや末の松山一ほともなくこゆるぞ旅の日なみなりける

又おなじ所にて、

   人なみに思ひ立ちにしかひあれやわかあらましの末の松山


 元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)早朝、芭蕉は「末の松山」を訪れている。

 末の松山は寺を造りて末松山といふ。 松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も終はかくのごときと悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。

この「寺」が末松山宝国寺である。

末の松山


樹齢470年を越える老松だそうだ。

平成13年(2001年)3月、積雪で黒松の枝が折れてしまった。

「末の松山」の下に山茶花。


山茶花の下に歌碑。



君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなん

『古今和歌集』巻20(東歌)



 元禄9年(1696年)、天野桃隣は沖の石から末の松山を訪れている。

 是ヨリ末の松山、むかふに海原見ゆ。千引の石此辺といへども、所の者曽て不知。


 寛延4年(1751年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で末の松山を訪れた。

   末の松山   寺の後山ヲ云

世そすへのまつ山かけて北時雨


 明和元年(1764年)、内山逸峰は末の松山で歌を詠んでいる。

 末のまつ山にて、

   越ぬべき浪こそ見えね末の松山かぜばかりを(お)とにまがひて


 明和6年(1769年)4月、蝶羅は嵐亭と共に嘉定庵の社中に末の松山へ案内された。

   末の松山

松山に浪こす音歟青あらし
   蝶羅

松やまに麥の穂波のそよぎかな
   嵐亭

実末の松吹おろす青すだれ
   野月


 明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で末の松山を訪れている。

祖翁いへり、すゑの松山は寺となりて、松のひまひま墓を築く。羽をかはし枝をならぶる契の末も終にはかくのごとくかなしと。

恋のみや末は無常のちり松葉
暁台

 露かと袖をしぼりすゞ風
陶家


 明和8年(1771年)7月25日、諸九尼は末の松山を訪ね、句を読んでいる。

 廿七日 野田の玉川をこゆ。

   秋されやその玉川も虫のこゑ   只言

 すゑの松山をたづねて見る。海のかたへ遠き所也。

   松やまや今越るのは鳫の声


 安永2年(1773年)、加舎白雄は末の松山を訪れた。

   すへの松山にて

松やしる旅ゆくすゑの秋しぐれ


 天明6年(1786年)8月26日、菅江真澄は「末の松山」の話を書いている。

こゝを八幡邑に出て、末の松山を尋ね行ば、末の松山宝国寺といふ、臨済のみてらのしりべに、しかばね埋みたる処に、赤松五六本たてり。これをむかしのふる木の残りたる也。外はみなこと松也といひけるなり。

見しなんぶの、なみうち坂といひしは、いかゞあらん。むかしおなかたの原に、都の男来りて、

   みやこなる雄山へはほと遠したれにあはせんおなかたの原

とよみたりしかば、いとわかき女の、かほよきが、いづことなふあらはれて、こなたにといふまゝ、一夜やとりてより、いもせのかたらいをしてすみけるに、此男いつまでかかくあらんといへば、女末の松山に、なみのこへなんことあらば、別れなんといふに、しらさぎの一むら過るを、こはなみのこしぬらん、いかゞせんとうちおどろけば、かたらひし女も、住みし家居もうせて、見し野はらとなりぬと聞へし。此ことの物語をおもひ出て、男女のあととぶらはんとて、清原元輔の、

   ちきりきなかたみに袖をしほりつゝ末の松山浪こさしとはと

よみたりしなど、これかれのふみに、いろいろと聞へたり。


 寛政3年(1791年)5月28日、鶴田卓池は末の松山に到る。

 玉田横野を過て末の松山にいたるに、今は浪も遠くへだゝり人家草むらにかくる。


 明治26年(1893年)7月30日、正岡子規は近くを通ったが、立ち寄らなかった。

末の松山も同じ擬名所にて横道なれば入らず。


 正岡子規が「末の松山」を「擬名所」だと判断した理由はよく分からないが、当時は樹齢360年。

芭蕉が「末の松山」を訪れ頃は樹齢160年。「老松」と言えるかどうか。

 清原元輔は実際見ていないのだろうが、『古今和歌集』で詠まれた「すゑの松山」はどうだったのだろうか。

 昭和3年(1928年)7月24日、荻原井泉水は「末の松山」を見ている。

末の松山の寺、末松山宝国寺は塩釜街道から岐れた菖蒲田街道に近い所だった。庫裡は二百五十年位になるというが、本堂は新しく、且つ葺替をしていた。本堂の裏から墓が並んでいる中の小径を裏手の山に登ると、大きな松が二本、これが多賀城の跡から遠く見えたものだった。そこに土地の老人がいて、もう一本、更に老いた松があったのだが、或る年の風雨に斃れたという話をしてくれた。

『随筆芭蕉』(塩釜の道)

沖の井(沖の石)へ。

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