『奥の細道』
〜雲厳寺〜
東北自動車道西那須野塩原二本松ICから国道400号で大田原へ。
大田原から国道461号黒羽街道で黒羽へ。
県道13号大子黒羽線に入り、さらに左折する。
雲厳寺がある。
臨済宗妙心寺派
の名刹である。
昭和43年(1968年)5月21日、
荻原井泉水
は雲厳寺に詣でる。
雲厳寺
牡丹を見る此の寺のにじの橋を渡り
『大江』
雲厳寺の前に『奥の細道』の文学碑があった。
当国雲岸寺のおくに仏頂和尚山居跡あり。
竪横の五尺にたらぬ草の庵
むすぶもくやし雨なかりせば
と松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼麓に到る。山はおくあるけしきにて谷道遥に、松杉黒く苔したゝりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。
さてかの跡はいづくのほどにやと後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
木啄も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。
平成元年(1989年)10月、黒羽町建立。
元禄2年(1689年)4月5日(陽暦5月23日)、芭蕉は雲厳寺にある
仏頂和尚
の山居の跡をみようと山門をくぐった。
那須の雲岸寺、佛頂禅師の小庵を尋て
留守に來て棚さがしする藤の花
『
俳諧
一葉集』
橋を渡って山門を入ると、左手に芭蕉の句碑があった。
佛頂和尚
たて横の五尺にたらぬ
草の庵むすぶもくやし
あめなかりせば
芭蕉翁
木つゝきも
いほはやふらす
夏こたち
明治12年(1879年)9月、再建。
雲巌寺仏殿
なぜか、方丈に「人面桃花」の扁額があった。
人面不知何処去
桃花依旧笑春風
明治39年(1906年)10月4日、河東碧梧桐は雲巌寺を訪ねた。
黒羽より東南また三里この雲巌寺(巌の寺相違す)に尋ね入った。山は奥あるけしきにて松杉黒くという様、一字一画を曲げ難い。十景または五景の中には白糸の滝もほそほそと縷
(いとすじ)
の如く落ちておる。橋は擬宝珠のついた太鼓橋めいておるのは後人の案か。山門を甘露門という。仏頂禅師の跡は、小庵も岩窟もない。
『三千里』
小杉未醒は雲巌寺を訪れている。
雲巌寺は山に倚り渓に臨み、今もよしありげな大寺、黒羽より近き處にある、
『奥のほそみち画冊』
『奥の細道』
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