2024年広 島

入船山記念館〜旧呉鎮守府司令長官官舎〜
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呉市幸町に入船山記念館がある。

旧高烏砲台火薬庫


国登録有形文化財

明治30年(1897年)以降、呉湾や広島湾を見下ろすことのできる要所に陸軍の砲台が築かれました。

この火薬庫は、明治35年(1902年)に呉軍港に近い休山(やすみやま)に建設した高烏砲台に置かれていたものです。石造を基本構造としつつトラス架橋で瓦葺き屋根を支えるといった全国的にも珍しい建築様式を残しています。

第8代呉鎮守府司令長官
加藤友三郎
文久元年(1861年)〜大正12年(1923年)


令和2年(2020年)12月6日、除幕式。原型作者青山三郎。竹中銅器制作。

左側から
   
右側から

   


加藤友三郎は広島藩士の三男として広島城下で誕生。明治6年(1873年)に海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)に入寮し、同17年(1884年)卒業。日清戦争の黄海海戦では最新鋭巡洋艦「吉野」砲術長として活躍し、日露戦争の日本海海戦では東郷平八郎連合艦隊司令長官の下で参謀長を努めた。その後明治42年(1909年)から大正2年(1913年)まで呉鎮守府司令長官、同4年(1915年)から同12年(1923年)まで海軍大臣を務め、この間米国海軍拡張に対抗して八八艦隊の予算取得、航空機部門を所掌する呉海軍工廠広支廠(後に広海軍工廠として独立)を創設する等、新時代にふさわしい海軍改革を推進した。また同10年(1921年)開催のワシントン会議に主席全権委員として出席し、列強各国に日本の立場を理解させると同時に、「国防は軍人の専有物にあらず」と海軍の軍縮と改革を断行して日本の孤立化を防ぎ、内外からその高い見識を絶賛された。同11年(1922年)には海軍大臣兼任のまま第21代内閣総理大臣に就任(広島県出身者として最初)、シベリア撤兵を決定したが、翌12年(1923年)総理在任中に病没した。死後、子爵と元帥の称号が贈られた。

旧呉鎮守府司令長官官舎


国指定重要文化財(平成10年(1998年)指定)

この官舎は、明治38年(1905年)に建築され、第7代から第32代までの約40年間にわたって呉鎮守府司令長官とその家族が公邸として利用しました。官舎の設計は、イギリスで建築を学び、ヨーロッパを遊学したのち呉鎮守府建築科長となった櫻井小太郎(1870−1953)が行いました。

木造の平屋建で、公的な利用をする洋館部と私的な利用をする和館部が結合する点が特徴的な建築です。洋館部の外観をハーフティンバー洋式とし、屋根は天然スレート(粘板岩)の魚鱗葺きとするなど、当時の洋館建築に見られる特徴を有しながらも、内壁や天井の一部には全国でも珍しい金唐紙を用いるといった固有の特徴も見受けられます。

建築から約90年を経て老朽化が進んでいたため、平成3年(1991年)から平成8年(1996年)にかけて調査と解体修理が行われ、明治38年の再建時の姿に戻されました。

和館部


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