俳 書
『しぐれ会』(明和9年刊)
明和9年(1772年)10月12日、五升庵蝶夢は「芭蕉翁幻住庵舊趾」の碑を建立。
いにしへ祖翁の住給ひし幻住庵は、石山の奥、国分山と申宮山なり。国分村をはなるゝ事二町余りにして、細き流をわたり翠微に登る事三曲二百歩のうへに八幡宮たゝせ給ふその宮の左の方に平らかなる地あるこそ、その庵の跡なりとそ。東は石山をうちこして遙に田上山・さゝほか嶽そひへ、黒津の里の網代守か家も、南は岩間・袴腰の山々ならひ、北は三上山の富士の俤にかよひたるも日枝・比良の高根の湖水にうつれる影も、唐崎の松の霞こめたるも、蜆とり鮒引く舟の行かふも、西は千丈か峰の名にたかき迄も、庵の記に書つらね給ひけるに露たかはねと、その庵はいつの世にかやふれうせけん。一ツの柱の朽ものこらす、三ツの径の跡たにみえねは、さたかにしれる人なし。たゝその世の形見とては、まつたのむと口すさひ給ひし椎の木立いとくらふしけり、みつから炊てとくとくの雫をはふと書給ひし清水のなかれ絶す、うしろの谷陰の木の葉の下になかる。また石をあつめて法華経を書写し埋み給ひし経塚とて、かたはらに石の堆く残りたるのみ。さはかりやかて出しとさえおもひそみ給ふける因縁の地の、いたつらにかたなくなりなん事をみるに心うけれは、その宮もりの翁、村のふるき人をかたらひて、その跡を尋とひ、かの蜆山に碑を建し心に同しく、一ツの石を立て、その庵の跡を世にしらしめ、むかしをしたふ後の好士に堕涙のおもひあらしめんと、洛陽・湖南の人々をすゝめて、明和九年辰の十月十二日、祖翁没後七十九年にあたりける日、蝶夢建之。
探 題
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木兎や夜は寝にくる屋敷守
| 只言
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青かりし大根も引て野は赤し
| 蝶夢
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あたゝまる山の窪みや炭けふり
| 重厚
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冬木立何をさわくそむら烏
| 沂風
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誉られし物もいつしか落はかな
| 文下
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四来奉納
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| 陸奥会津
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鳶の舞ふほとは日の照るしくれ哉
| 巨石
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| 南部
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かならすと時雨まつ日や塚の前
| 素郷
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| 伊賀上野
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吹れては葉よりも軽し初しくれ
| 桐雨
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| 筑前福岡
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おしまれた跡からも来る時雨哉
| 蝶酔
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兀として山は日の照る時雨かな
| 梅珠
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| 豊後杵築
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晴たりと詠る空にゆふしくれ
| 蘭里
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| 浪花
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芭蕉忌や長等の山もけふこそは
| 旧国
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| 尼
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時雨会や百里の末もわけてふる
| 諸九
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出席捻香
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| 嵯峨
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しくれ会や床に猿蓑炭たはら
| 重厚
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此日国分山に登りて、人々とともに椎柴をかり、萩すゝきの枯しをかなくり、かの石を建ける折ふし、三上の山・水茎か岡のかたよりうち時雨来りて、「芭蕉翁幻住庵旧跡」と書たる石の面も、あたりの草木もさなからぬれて、一きわしみしみと見えわたり、そゝろにむかし覚えて哀なれは
ふりし世の庵もかくや夕しくれ
| 蝶夢
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手 向
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| 堅田
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その名そと月の差図かむかし窓
| 未角
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