私の旅日記〜2011年〜
ポケットパーク「名水」〜碑巡り〜

岐阜市湊町の長良橋南詰東側にポケットパーク「名水」がある。
ポケットパーク「名水」に芭蕉の句碑があった。

おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉
出典は真蹟懐紙。
貞享5年(1688年)、『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の長良川で鵜飼を見て詠まれた句。
ぎふの庄ながら川のうかひとて、よにことごとしう云のゝしる。まことや其興の人のかたり伝ふるにたがはず、浅智短才の筆にもことばにも尽べきにあらず。心しれらん人に見せばやなど云て、やみぢにかへる、此身の名ごりお(を)しさをいかにせむ。
おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉
(真蹟懐紙)
昭和38年(1963年)、岐阜市建立。大沢碧水書。
「十八楼」に俳文「鵜舟」が刻まれている。
面白うてやがてかなしきう船かな
| 芭蕉
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此句晋子が所持の翁の自筆には
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面白うてやがてなかるゝ鵜ぶねかな
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と侍りぬるよし、晋子より申こしぬ。
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『蕉翁句集』(土芳編)は「鵜飼かな」とする。
此直に聞句也。阿羅野ハ鵜舟哉と有。初禅(ママ)ニハ面白うやがてと有。
元文5年(1740年)6月、佐久間柳居は鵜飼を見ているようである。
「川端康成ゆかりの地」の碑があった。

大正10年(1921年)、川端康成氏は加納にある寺の養女となっている伊藤初代さんに会うために、友人とともに3度にわたって岐阜市を訪れ、この時の体験を「篝火」「非常」「南方の火」などの短編小説に描きました。
「篝火」には、結婚の約束をした幸せな二人が、長良川畔の宿の二階から、長良川を下って来る鵜舟を見る様子が次のように書かれています。
「あ、あの篝火は鵜飼船だ!」と私は叫んだ。「あら、鵜飼ですわ。」「ここに流れて来るんだろう。」「ええ、ええ、この下を通りますわ。」金華山の麓の闇に篝火が小さく點々と浮かんでゐる。(中略)舳先の篝火は水を焼いて、宿の二階から鮎が見えるかと思はせる。そして、私は篝火をあかあかと抱いてゐる。焔の映つたみち子の顔をちらちら見てゐる。こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい。
昭和2年(1927年)6月、高浜虚子は長良川の鵜飼を見て芭蕉の句を思い出している。
其處で又鵜匠は我等の爲に一匹の鵜を捕へて最前陸でこゝろみたと同じやうな説明をして呉れるのであつた。只最前の説明と異つて居て面白かつたのは、赤腹とか稱へる鮠(はや)の種類であらう腹の赤い魚を十匹ばかり桶に入れてその一匹の鵜に與へると鵜は瞬く間にそれを食つてしまふ。喉の袋は大きくふくれる。その時鵜匠はその鵜を取上げて最前舷でしたやうにその魚を吐かす。さうすると十匹程の赤腹は瀧のやうに鵜の嘴からほとばしり出る。又その魚を同じ様に鵜に與へると同じ様に瞬く間に食つて仕舞ふ。又それを吐かす。私達は眼を見張つてその光景を暫し凝視して居たが、「おもしろうてやがてかなしき鵜船哉」と云ふ芭蕉の句をまざまざと思ひ出すほどあさましく物あはれになつて來た。
「鵜飼見」
「鵜匠頭山下幹司翁歌碑」もあった。

篝火の朱にはゆる 君こそは鵜匠なれ
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濡れしづく腰蓑の 風折鳥帽子古風にて
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すばやくも手にさばく 桧の縄のはらはらに
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時の間よゆく水のかぎりなき 灯ににほへば
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香魚を追ふ鵜の数の つぎつぎと目にうつりて
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ほうほうと呼ぶこゑの 誰ならず夜を惜しむなり
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昭和2年(1927年)8月初旬、北原白秋が岐阜を訪れ、鵜飼見物の感興を詠んだ長歌である。
昭和8年(1933年)、斎藤茂吉は長良川の鵜飼を見に行った。
長良川
美濃のくに長良の川の鵜を見むとけふぞ來にける古き遊ぞ
『白桃』
長良橋南詰西側にはポケットパーク「鵜かがり」がある。
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