江戸時代にはこの山は代々小倉藩の家老だった宮本家が、藩主から拝領していた。 明治になって手向山(当時は田向山)一帯を陸軍が接取、戦争による艦隊の来襲を予想し、関門海峡防備のために山頂東側に砲台を構築した。中央四号倉庫の上部に「明治20年(1887年)9月起工、同21年(1888年)9月竣工」とあり、砲台の設置は明治21年(1888年)大砲の設置は同24年(1891年)である。 砲台は一砲座に24センチ臼砲2門を配備、合計6砲座を設置した。右の4砲座は直線に、左の2砲座はやや内側に折れた「折線砲列」になっていた。各砲座は山の斜面を削って三方をすり鉢状にしていた。 砲座から関門海峡が見えないので、砲台両端から100メートル離れた場所に観測所を設置し位置や距離を確認し、砲座と連絡するしくみになっていた。しかし、砲台は実戦に使われることはなかった。
小倉北区役所 |
この碑は宮本武蔵の養子・伊織が建立したものである。伊織が播州明石の藩主であった小笠原忠真に仕えたのは、寛永3年(1626年)。15歳の時で、同9年小笠原氏が小倉に入国したときには、若くして知行二千五百石の家老であった。 武蔵は数年間小倉に在住したと伝えられるが、寛永17年には、熊本に移り、正保2年(1645年)5月19日に没した。 碑は、伊織が、忠真から拝領した手向山に、養父武蔵をしのんで、承応3年(1654年)4月19日に建てたもので、古くから北九州地方第1の名碑とうたわれている。剣豪の生涯の事跡を伝える碑文は、武蔵と交友のあった熊本・泰勝寺の春山和尚が記したものである。
北九州市教育委員会 |
この碑は、作家の村上元三が新聞連載小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、旧小倉市に寄贈したものです。谷口吉郎の設計で、昭和26年(1951年)に建てられました。碑には元三の句「小次郎の眉涼しけれつばくらめ」が刻まれています。 佐々木小次郎については、隣の宮本武蔵の碑に「兵術達人名岩流」と刻まれていますが、他に資料がなく良く分かっていません。 武蔵との試合があったといわれる4月13日に近い日曜日に、毎年碑前で武蔵小次郎まつりが行われています。
北九州市教育委員会 |
小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ |