2022年福 岡

高炉台公園〜碑巡り〜
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野外音楽堂


皿倉山が見える。


佐木隆三の文学碑


復讐するは我にあり

略歴

昭和12年生
昭和31年八幡中央高校卒業、八幡製鐵入社。岩下俊作の創作研究会入会。
昭和38年「ジャンケンポン協定」新日本文学賞受賞。
昭和50年「復讐するは我にあり」第74回直木賞を受賞。
「宿老田中熊吉伝」他著書多数。

功績

北九州市主催「自分史文学賞」選考委員長。
平成15年国民文化祭「小さな自分史」企画・選考委員長。
平成18年市立文学館名誉館長。文化・文学土壌作りに貢献。

平成26年〈2014年〉10月26日、文学碑設置。

平成27年〈2015年〉10月31日、78歳で没。

岩下俊作文学碑


 吉岡夫人の
手を把んだ松五郎は、直に
「奥さん済まん」と叫ぶと
身を翻して飛び出した
――風に様に、下駄を履かずに
 闇に消えた――。
 (無法松の一生より)

平成2年〈1990年〉4月5日、設置。

「岩下俊作文学碑」建立にあたって

 「無法松の一生」で知られている作家・岩下俊作は八幡製鉄所の従業員であった。毎日、小倉から八幡に通って生活を支えた。中央町界わいで酒も沢山飲んだ。八幡という土地をはずして岩下の生活は考えられない。そうしたことから、岩下俊作35年間勤めた製鉄所を望む高炉台公園に「岩下俊作文学碑」があっても不思議ではない。いや、岩下にとって眼下に広がる八幡製鉄所や洞海湾が見える位置は最もふさわしい。対岸の高塔山山頂には岩下と同じ文学仲間、火野葦平の文学碑がある。洞海湾を隔てて相対峙する文学碑は、北九州の文学の象徴になるに違いない。また、公園を散歩する多くの市民に無法松の一生の舞台小倉と、生活を支えた八幡の関わりで文学者岩下俊作に、より親しんで頂きたい。

創作研究会

経 歴

 明治39年(1906年)、北九州市小倉に生まれる。本名、八田秀吉。昭和2年、県立小倉工業学校機械科を卒業。八幡製鐵所に勤務。昭和13年、同人雑誌・九州文学に参加。同誌に発表した「富島松五郎伝」で認められる。昭和36年八幡製鐵所を退職。明治通信社に在職のまま執筆活動を続け、昭和55年(1980年)1月30日、73歳で死去。

 昭和23年5月、八幡製鐵所創作研究会創設。

 所内報「くろがね」小説選者。

 縄・西域記・青春の流域・焔と氷・明治恋風などの作品がある。なお詩誌・とちんしつと・たむたむを創刊。

上野十七八の句碑


 夜の眺め
昼のながめも
  大八幡

昭和37年(1962年〉6月、設置。

上野十七八(さかり)句碑について

北九州の川柳の育ての親として慕われている。上野十七八大若くして柳道に志し健吟振りは全国を通じて追随する人をおかず。川柳くろがね吟社を主宰する傍ら各地の選者として活躍、後進の指導に当る。茲に有志相集い九州川柳発祥の地八幡に句碑を建立し永くその徳を称えんとす。

石橋陸朗の句碑


巣立つ子の
夢へ八幡の
 空は炎え

石橋陸朗句碑について

氏は明治44年柳川に生まる。若くして柳道に志し円満なる人柄は家庭吟を主とされ川柳くろがねを主宰する傍ら広く後輩の指導に専念さる。ここに有志相集い九州川柳発祥の地八幡に句碑を建立し永久にその徳を称えんとす。

ひらしま酒店へ。

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