2019年福 井

丸岡城〜皆吉爽雨の句碑〜
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10年ぶりに丸岡城を訪れた。

丸岡城天守閣「重要文化財別名霞ヶ城」


 天正3年(1575年)織田信長が北陸地方の一向一揆の平定を期して、豊原寺(現在の東方約4Km)を攻略した。信長は柴田勝家の甥、伊賀守勝豊を豊原へ派遣し城を築かせた。

 天正4年勝豊は豊原城を丸岡に移した。これが現在の丸岡城となる。柴田勝豊のあと、安井左近家清、青山修理亮、青山忠元、今村盛次等が一時これを支配し、その後、本多成重以下四代の居城となったが、元禄8年5月有馬清純の入封以来、明治維新に至るまで、八代にわたって有馬家の領有することとなった。

 平章館(現在の平章小学校)の創設者、有馬誉純(五代)は文教政策に力を注ぎ、文教の礎となる。

 明治3年3月、版籍奉還後、同4年9月官有となり、さらに民有に移り、明治34年8月町有となる。その間、周濠は埋められ、城門、武家屋敷等の建物は売却または譲渡され、現在わずかに天守閣とその附近の石垣の小部分を残存するだけとなった。

 昭和9年1月30日、国宝に指定されたが、昭和23年6月28日、福井大震災により倒壊、昭和25年8月29日、国の重要文化財に指定され、昭和26年12月復元に着手、用材は80%近く古材を使用し、昭和30年3月30日修理復元され現在に至る。

 本城は二重三層、外観は上層望楼を形成し、通し柱をもたず、初重は上重を支える支台を成す。構築法、外容ともに古調を伝え、屋根は石瓦(笏谷石)で葺き、基礎の石垣は野面積み、これは我が国城郭建築史上、現在の天守閣の中で、最古の様式のものである。

今日は、青空だった。

天守閣の左手に芭蕉の句碑がある。


初しくれ猿も小蓑をほしけ也

『猿蓑』冒頭の句。

霞ケ城公に皆吉爽雨の句碑があった。


汗引いて
   山河
やうやく
   ふるさとぞ

碑 陰

 皆吉爽雨(みなよしそうう)先生の郷土福井県に住む我々は、長年先生に俳句の教えを受けておりますが、先生は、本年喜寿を迎えられ、出生地の丸岡に句碑建立を発意しました。なお先生の孝心により尊父(五浪)の句を併せ刻して俳道二代の父子句碑としました。

 我等いま一同深い喜びをもって右の趣を後世に永く伝えます。

昭和54年(1979年)5月26日、建立。

彫句と畧歴

   一廻りして元の坐の花見かな   五浪

 皆吉五郎(五浪) 弘化2年丸岡町に生る。官途を経て、明治37年から41年まで丸岡町長を勤め、町内の人達と俳諧にはげむ。大正10年福井市にて物故。享年77才。

   汗引いて山河やうやくふるさとぞ   爽雨

 皆吉大太郎(爽雨) 五郎長男として明治35年丸岡町に生る。平章小学校、三国町南小学校を経て、福井中学校卒業。大阪住友電気工業に入社し、終戦直後東京に転勤、勤続30年にて退職す。なお大阪にて俳誌「山茶花」を発行、東京にて「雪解」を主宰し、昭和42年第1回蛇笏賞、昭和54年春、俳句による芸術上の功績により勲四等旭日章の叙勲をうく。現在社団法人俳人協会副会長。

昭和58年(1983年)6月29日、死没。

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