城山南側の追手門筋に位置し、天守と同じく江戸時代から現存している門です。武家の正門とされる薬医門形式を取っています。桁行3.6m、梁間2.1mをはかり、現存する薬医門の中では最大クラスです。屋根には伊達家の家紋瓦が葺かれていますが、建築的特徴と木材の科学的分析の結果から藤堂高虎が城づくりを手掛けた慶長の初め頃まで遡る可能性があり、国内最古クラスの薬医門となり得る、貴重な建物と言えます。 |
現存12天守の1つがそびえ立つ宇和島城は、慶長20年(1615年)に伊達政宗の長男、秀宗が入城後、明治を迎えるまで"西国の伊達"9代の居城でした。 国が定める「重要文化財(建造物)」に指定されている天守は、宇和島伊達家2代藩主の宗利が寛文6年(1666年)頃に建築したものです。かつて同所には、築城の名手として有名な藤堂高虎が慶長6年(1601年)に建築した天守があり、幕府には修理の名目で届出をしましたが、天守台の石垣を含めて宗利により全面的に建て直されたため、その姿は絵図でしか窺い知ることができません。 |